令和6年度春期原画公開
二条離宮の大広間〜〈大広間〉一の間~
■2024年4月25日〜6月23日
■二条城障壁画展示収蔵館
二条城二の丸御殿の中でもっとも有名な場所が「大広間」です。
大政奉還が布告された場所として、御殿内ではお人形さんたちによって当時の様子が復元されています。
修学旅行生たちにもお馴染みのエリアでしょう。
今回の展示収蔵館による原画公開では、四つある「大広間」各間の中でも最も中心的な役割を担った空間である「一の間」の障壁画が披露されました。
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何度か足を運んでいるこの収蔵館ですが、「大広間一の間」の原画展示を鑑賞するのは初めてです。
入ってすぐ、あることに気がつきました。
ひょっとするとこの空間はまさにこの「大広間一の間」の障壁画群をそのまま再現展示できるように設計されたのではないか、ということです。
「一の間」は実際の御殿内では大広間空間の北西に位置し、北の壁面を背にして将軍が座ります。
彼から見て左手、つまり一の間の東側に帳台構が設けられ、東西の巨大な壁が二の間へと続いています。
一方、展示収蔵館は北の壁面を短辺とし東と西の側面を長辺とした南北に長い長方形の空間です。
北の一辺に将軍が座る床の間部分をおいて東西の各面にそれぞれ対応した障壁画を嵌め込むと東西南北の位置関係を含めてほぼ完全に「大広間一の間」が再現されるのです。
これは当たり前のように思われるかもしれませんが、「遠侍」といった他の建屋の各間には南北方向ではなく東西方向に長辺をもつ空間もあります。
また同じ大広間でも「三の間」は東西方向に長い空間です。
結果、サイズの関係から例えば本来「北」にあるべき障壁画が収蔵館内では東や西に展示されることがあります。
また、もともと「南」方向は収蔵館の出入口になっていますから御殿内で南に飾られている障壁画は必然的に違う方角の壁に設置されることにもなります。
つまり、実際に御殿内で観た景色と収蔵館内での展示位置関係が異なってしまうことが結構多いのです。
この場合、鑑賞者は展示収蔵館内の解説板にあるレイアウト図を頼りに目の前にある原画を実際の室内配置に頭の中で置き換える必要があるわけです。
ところがこの「大広間一の間」はその方角関係を含めてピッタリと収蔵館の大きさに合致するのです。
原画のレイアウトを脳内で組み直す必要は全くありません。
御殿内に飾られている様子がそのままほぼ再現されています。
公的な機能面において二条城内で最も格式が高い重要な空間である「大広間一の間」の障壁画群をなるべく実物と同じ位置関係で再現することが展示収蔵館の設計目的とされたのではないか、そんなことを妄想しつつ鑑賞することになりました。
しかし、この城内で最も有名な空間に描かれている障壁画自体は、不思議なことにその役割に比してそれほど二条城絵画を代表するビジュアルとして使われることがありません。
「大広間一の間」の障壁画群を描いた絵師は狩野探幽(1602-1674)です。
彼はこの他に「大広間三の間」の障壁画等も描いているのですが、「一の間」よりもむしろ「三の間」にあらわされた鷹や孔雀の方がガイドブック類には掲載されることが多いかもしれません。
また近年、狩野山楽(1559-1635)の筆であることが確実視されたことでも話題になった「四の間」もその桃山的に大胆な構図で有名です。
「一の間」の障壁画が他の間に比べて取り上げられることが少ない理由はある意味簡単に推測できます。
ほとんど「松」しか描かれていないからです。
細密な探幽の孔雀や勇壮な山楽の鷹もここにはいません。
鳥獣ではわずかに「錦鶏鳥(きんけいちょう)」という権力者を象徴する吉祥モチーフが小さく登場しているだけで、しかもこの鳥は帳台構内の一枚に描かれているだけです。
水仙などが慎ましく細部に施されているものの、牡丹や菊といった華やかな草木はほとんど描かれていません。
土坡や金雲などの様式的な装飾も略されています。
あるのは東西と北の各面をがっちりと支配する松の巨木だけなのです。
「大広間一の間」は「二の間」に座した諸大名やその重臣たちを徳川将軍が謁見する場所です。
極めて儀典的性格をもった城内の中でも最もその機能が強まる空間といえます。
ここには室内の主役のように振る舞う鷹や孔雀、威嚇の睨みをきかせる虎や、場の空気を和らげる小鳥や華麗な草花類は必要ありません。
そこに座る将軍の権威を高める意匠がシンプルに強く存在すれば良いわけです。
狩野探幽はこうした「大広間一の間」の役割を熟知していたのでしょう。
1826(寛永3)年当時、まだ24,5歳だったこの絵師は余計なモチーフを排し、将軍そのものの象徴である松の大樹を描ききることで早くも次代の狩野派を率いる才能を見せつけているようです。
ところで現在、京都国立博物館で開催されている「雪舟伝説」展では画聖雪舟の影響を受けた絵師たちの作品がたくさん紹介されています。
探幽も当然にその中の一人として登場しているのですが、他の絵師と比べて明らかに違うスタイルが確認できると思います。
「余白」がとにかく多いのです。
緻密に雪舟の様式を取り入れつつも、探幽が描く山水図は景物よりもむしろ余白が生む空気感や余情にその大きな特徴がみてとれると思います。
「大広間一の間」では画面を松がきっちり支配していますから、まだ探幽独特の「余白美」が十分発揮されているとはいえないかもしれません。
しかし床の間、つまり将軍その人が背にする壁面に描かれた松は画面の半分以上を金碧の背景に譲っています。
松の存在を重視しつつも主役はあくまでも将軍であることをわきまえている構図といえなくもありません。
結果として威厳と品格という二つの性質が際立っているように感じられてきます。
探幽による「余白」スタイルはさらに瀟洒の度合いを高め、やがて江戸狩野全体に浸透していくことになります。
これは美的な効果を当然考えての傾向ですが、「余白」を多くすることは、「描くものが少なくて良い」ということにもつながります。
言い換えれば、限られた時間の中でも「たくさん描ける」ということです。
近世の旺盛な絵画需要に狩野派が応えていく中で、こうした「余白の経済合理性」が大きな力を発揮したとも言われますが、二条城二の丸御殿「大広間一の間」にはそうした狩野派飛躍の端緒がみてとれると思います。
ところで今回の展示では「二条離宮」、"Imperial Villa"という表現がタイトルに用いられています。
いうまでもなく、二条城は明治に入って徳川家から接収され皇室の持ち物となりました。
そもそも京都市が現在所有するこの施設の正式名称は「元離宮二条城」です。
「大広間一の間・二の間」は「離宮」だった頃、皇太子時代の大正天皇が謁見の場として用いたのだそうです。
そうしたこの場所がもっている歴史的背景から今回は「二条離宮」という言い方が選ばれたということなのでしょう。
徳川政権を盤石とした三代徳川家光、最後の将軍徳川慶喜、さらに皇太子嘉仁親王と3人の主人を荘厳した狩野探幽の松は今も重厚かつ端正に枝を伸ばしています。
外国人観光客と修学旅行生たちによって二の丸御殿内はところどころ渋滞も発生する混雑ぶりですが展示収蔵館内は相変わらず静かで、しばらく探幽の松を独占鑑賞することができました。
なお館内の写真撮影はいつもの通り禁止です。