藤田美術館では現在「紫」をキーワードとした展示コーナーが設けられています(2024年5月1日〜7月31日)。
色彩としての紫色にちなんだ作品も少しは披露されていますけれど、今年に限っていえば当然「紫式部」にかけられた特集ということになるのでしょう。
数々の国宝を有する藤田美術館のコレクションの中でも非常に有名な作品「紫式部日記絵詞」が登場しています。
(なお一般的には「紫式部日記絵巻」と表記されることが多いと思いますが藤田美術館では「絵詞」を採用していますのでこの雑文でも以下「絵詞」とします)
2022年のリニューアル開館以来、テーマを三つ定めた上でコレクションの中から展示品を選りすぐり、およそ3ヶ月単位で順次繰り回しているこの美術館。
すでに「紫式部日記絵詞」の内、十六夜の舟遊びを描いた段などが披露されてきました。
今回は「絵詞」の終わりのあたり、もっとも有名な部分である藤原道長が描かれたシーンが開示されています。
かなり暗めに設定された館内照明の中でも料紙が陰影を含んで複雑に輝いています。
訪問したときはなんと展示室内に誰もおらず、しばらくの間、贅沢なことにこの傑作絵巻を独占して鑑賞することができました。
大規模ミュージアムによる絵巻特集展などにゲスト出展される機会もある作品ですが、大混雑しがちなそうしたブロックバスター展では絶対に味わうことができない素晴らしい鑑賞体験となりました。
個人コレクションや東京国立博物館、五島美術館に分蔵されている「紫式部日記絵詞」の中でも藤田美術館のそれは群を抜いて著名な存在です。
もともとは旧館林藩主秋元家に伝来したもので、同家による売立を経て、1917(大正6)年、藤田傳三郎(1841-1912)の長男、藤田平太郎(1869-1940)が入手しています。
1008(寛弘5)年、道長の娘彰子が後の後一条天皇となる敦成親王を出産した後に行われた一連の出来事が詞書と絵で表現されています。
今回開示されている部分は、まず寛弘5年9月17日、第七夜の産養(うぶやしない)が行われた日の様子が描かれた箇所から始まります。
白絵具や銀で描かれた部分が変色しているためややわかりにくいのですが、画面左上、御帳台に伏している人物が中宮彰子、そのすぐ側に後ろ姿をみせつつはべっているのが紫式部です。
偶然だと思いますけれど、現在あべのハルカス美術館で開催されている「徳川美術館展」では国宝「源氏物語絵巻」の「早蕨」が展示されています(展示期間は5月13日〜26日)。
「早蕨」は宇治十帖の一場面である中の君と弁の尼の別れが描かれているのですが、二人の相対する人物とその他の女房たちが登場しているという点で「紫式部日記絵詞」のこの場面と共通した面があるように思います。
「早蕨」が各人の感情を形式性の中に秘匿することで逆に物語を知る者の想像力にその悲哀を強く訴えかけてくるのに対し、「絵詞」では手前にいる女房たちの仕草に動きを持たせつつしっとりと幸福に包まれた場の空気を伝えようとしているように感じられます。
「源氏物語絵巻」が末期とはいえ平安時代に描かれているのに対し、「紫式部日記絵詞」は鎌倉時代に制作されたことが明確な絵巻です。
新時代に入りリアル性が尊ばれはじめた絵画様式の移り変わりが、同じような構図をもつ二つの作品を比べるとよくわかるような気がします。
これを機会に天王寺と京橋をハシゴして比較してみるのも面白いかもしれません。
さて、最後の箇所には、前場面からおよそ一月後の寛弘5年10月16日、一条天皇が道長の邸宅である土御門殿に行幸するにあたり、道長が池に浮かぶ龍頭鷁首舟とその上で演技する舞人たちの動きを点検している様子が描かれています。
「絵詞」の中でもっともよく知られている部分だと思います。
いつみても不思議な感覚に襲われる絵画です。
画面右にたっぷり堂々と描かれた藤原道長と彼が立つ屋敷の縁側。
舞人たちが乗る龍頭鷁首舟。
それぞれを見る角度が異なっています。
舟を横から見る視線と道長を斜め上から見る視線は全く違った場所から放たれていますから絵の中に二つ以上の視点が存在していることになります。
しかもそれぞれの対象がそれぞれに極めてもっともらしく描かれているため、視点の相違が鑑賞者の中で奇妙に丸め込まれてしまい、明らかにおかしいパースペクティブなのに図像としてこれ以外考えられないような説得性をも帯びています。
形式性とリアル性が奇跡的に混淆してしまった名画であり、それがこの作品固有の魅力ともなっているようです。
「紫式部日記絵詞」が制作されたとされる時期は紫式部自身が生きた頃より約200年が経過した鎌倉時代です。
いずれにせよ大昔のことなのでちょっと想像しにくいのですが、仮に現在に置き換えてみると、現代の画家が江戸の町人文化を描くようなものということになります。
つまり鎌倉時代の絵師たちにとって、紫式部がいた平安時代はもはや幻想的な過去世界だったともいえます。
「紫式部日記絵詞」は幻想と現実、形式性とリアル視点が一つに織り合わされているがゆえに観る者をひきつけてやまない魅力を今も持ち続けているのでしょう。
今回の「紫」特集では「絵詞」以外にも法華経扇面写経や仁清の香合など、時代や題材を鍵に多彩な作品が組み合わされています。
一点豪華主義の企画とは一味違う魅力がありました。
また並行して展示されている「咲」のコーナー(5月末まで)では呉春の下絵による優雅な小皿や藤原公任筆と伝わる暮春花色紙が、「雲」(6月末まで)ではこれも鎌倉時代の名品「刺繡釈迦阿弥陀二尊像」などの傑作が展示されています。
なお写真撮影は例によって全作品、OKです。