ハピネットファントム・スタジオの配給でジョナサン・グレイザー(Jonathan Glazer 1965-)監督による話題作「関心領域」(The Zone of Interest 2023)の公開が5月24日から始まっています。
さっそく近所のシネコンで鑑賞してみました。
第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ強制収容所のすぐ隣で暮らす一家の日常が描かれた映画です。
この大筋は予告編等で観客にあらかじめ告知されていました。
実際に観てみると映画の内容自体はほとんどこの事前に知らされていた概要から逸脱しません。
特段エモーショナルな展開や予想外の逆転劇が仕込まれている映画というわけでもありません。
部分的にはかなり凝った画像処理が見られる場面もありますが、全体的にみれば過剰な演出上のバイアスや説明的なナレーションもなく、映像自体はアート系映画のそれといっても良いくらいミニマルでフラットです。
クリスティアン・フリーデル(Christian Friedel 1979-)が演じている人物は強制収容所の所長ルドルフ・ヘス(ナチ党副総統ルドルフ・ヘスとは別人)、実名で登場します。
「落下の解剖学」での名演が記憶に新しいザンドラ・ヒュラー(Sandra Hüller 1978-)が、実質的な主役といってよいかもしれないその妻ヘートヴィヒを演じています。
収容所の内部やそこで苛烈な迫害を受けているユダヤ人たちの姿は一切映像として登場しません。
このように、ナチスによる残虐行為についてそれ自体を映像化しないというやり方は、「SHOAH ショア」を監督したクロード・ランズマンが、迫害の現場を描いたスピルバーグの「シンドラーのリスト」を猛烈に批判して以降、特に説得力をもってしまっているといっても良いかもしれません。
近作でみても、例えばヴァンゼー会議を描いた映画「ヒトラーのための虐殺会議」では全く迫害や収容所の様子等を映すことなく会議に参加した人々の狂気と野蛮、残酷性を表現していました。
また映画ではありませんけれども、ゲルハルト・リヒターは近作「ビルケナウ」で、一旦まずアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で行われたとみられるユダヤ人たちの死体焼却が撮影された決定的証拠写真を描写しつつ、その上から全く別の抽象絵画をまるで塗りつぶすかのように重ねて描いています。
「描いて消す」あるいは「塗りつぶす」ことによって、その禍々しさが逆に観る者を圧倒する絵画です。
「直接ホロコーストの現場を描写しない」ことはむしろ、語弊があるかもしれませんが、このテーマを扱った作品では一般的となっているスタイルともいえそうです。
しかしジョナサン・グレイザーは、ある意味、映像でホロコーストの状況を再現するよりもはるかに強力な手法でアウシュヴィッツそのものを提示しています。
この映画は極めて特異なことに「無音」となる瞬間がほとんどありません。
ヘス一家が暮らす居宅では、内でも外でも、昼でも夜でも、常に何かが起きていることを想起させるような「ノイズ」が響いています。
焼かれるような音。
発砲音。
かすれつつ消えていく人々の叫び声。
そして可聴範囲ギリギリを攻めてくるかのような低周波の持続音。
こうした響きが微妙な遠近感を伴いつつ、全く止むことなく延々と映像に重ねられていくのです。
結果的に鑑賞者の視覚と聴覚は同時に全く違う情景を脳内に投影してしまうことになります。
このおぞましい現象こそ、映画「関心領域」が放つ恐怖の正体です。
さらに、意地悪なグレイザーは時折ノイズ自体を主役にするかのようなシーンを唐突に挿入してきます。
その衝撃は私にとっては精神的というより生理的にダメージを受けるレベルでした。
ジェノサイドという、それ自体が狂気の沙汰である事態にあって、登場人物たちの異常さにランク付けをしても意味はありません。
でも、虐殺現場の隣で暮らす家族の中でも、その異常性の強度には若干の違いがみられます。
まだ幼いヘスの娘は寝ることができず一人、廊下に座り込んでいます。
夜になっても続く「ノイズ」に自然と慄いていることがわかります。
居宅を訪ねてきたヘートヴィヒの母親である老女は最初のうちは娘が作り上げた庭の様子などを見て屈託なく喜んでいました。
しかし、例の「ノイズ」が次第に彼女を蝕んでいったのでしょう。
耐え難くなった母親は娘に黙って突然、居宅から去ってしまいます。
ヘス当人はアウシュヴィッツで行われていることに全く罪悪感を覚えてはいないようにみえます。
ただ無意識の領域においては彼も「ノイズ」の影響をしっかり受けていたようです。
ラスト近くでヘスが「もよおす」シーンは、無意識下に浸透した、彼が受けて然るべき瘴気の存在を感じさせます。
他方、ヘートヴィヒ・ヘスは母や夫とは違い、完全に「関心領域」を周囲の世界から別離させることができている人物です。
ヘスが転属によってアウシュヴィッツの地を離れることになった際、彼女はそれを断固として拒絶します。
彼女にとってここは「理想の我が家」であり、収容所の存在とそこで行われている行為は全く関係がないことなのです。
異常が日常となったこの映画における「関心領域」の真の主人はルドルフ・ヘスというより妻ヘートヴィヒでしょう。
それにしてもザンドラ・ヒュラーの演技力には驚くばかりです。
「落下の解剖学」では英語とフランス語しか話さないスマートなドイツ人作家を演じきっていたのに対し、この作品では当然母国語を使いつつ、どことなく野卑た面をもつ中流家庭の女主人になりきっています。
ところで、同じくホロコーストをテーマとした映画で、2020年に日本でも公開され一部で話題になった作品にセルゲイ・ロズニツァ(Sergei Loznitsa 1964-)監督による「アウステルリッツ」(Austerlitz 2016)があります。
ポーランドのアウシュヴィツではなく、ドイツ国内のオラニエンブルクにあるザクセンハウゼン旧強制収容所を訪れた見学客たちを写したドキュメンタリー映画です。
有名なゼーバルトの原作小説から「ダークツーリズム」というヒントを得つつ、現代の「強制収容所ツーリズム」を描くというかなり捻りが効いた映画ですけれども、今回「関心領域」を鑑賞して真っ先に記憶から呼び覚まされた映画がこの「アウステルリッツ」でした。
「アウステルリッツ」では旧強制収容所の遺構がシャープなモノクロ映像で淡々と写し出されていきます。
わざわざここを訪れた人々は当然にホロコーストの悲劇とナチスによる許されざる犯罪行為の形跡を確認するために来ていると想定されます。
どうみても「関心」がある人々です。
ところが、ロズニツァの冷徹なカメラに写された見学者たちからは本来もたれるべき「関心」とは違った「関心」の有り様が伝わってきます。
ショートパンツにTシャツ姿で歩き回る見学者たちの表情に「好奇」の眼差しはあっても「鎮魂」の深さはほとんど見受けられません。
解剖実験が行われたとみられる手術台の前でポーズをとって記念撮影する人たちは笑顔すら浮かべています。
彼ら彼女らは実は「見学者」ではなく「観光客」なのです。
「アウステルリッツ」には紛れもなくホロコーストへの「関心」が示されていますが、それは、アウシュヴィッツ収容所を「関心の外」に切り離したヘス夫妻のそれとは別の意味で極めて異様なものにみえてきます。
クロード・ランズマンはおそらく「シンドラーのリスト」に「アウステルリッツ」に写された観光客がもっていた「関心」と同じ醜悪な臭いを感じたために、スピルバーグを批判したのかもしれません。
現代の世界で起きているさまざまな悲劇に「無関心は許されない」というような青臭く説教じみた語法やストーリー展開を「関心領域」は全く採用していません。
ジョナサン・グレイザーは、そうした表面的な「関心」ではなく、セルゲイ・ロズニツァが「アウステルリッツ」で描写した「冷酷な関心」の忌まわしさを「ノイズ」によって容赦無く観客に突きつけ、えぐってくるのです。
無関心でいることに対する抗議の剣をこの映画を観て手にすることはできるかもしれません。
でも、どういう「関心」をもってこの「関心領域」を観にきたのかと問われた瞬間、その剣は自分に向かって振り下ろされることになるかもしれません。
「関心領域」はそういう意味で耐え難く「逃げ場のない」映画でした。