マジック・アワーとリトルモアの配給で、飯島将史(1984-)監督&脚本による「プロミスト・ランド」(PROMISED LAND 2024)が6月末頃から各地のミニシアターで公開されています。
飯島監督初の商業映画なのだそうです。
実力派俳優たちが起用されているところに惹かれ鑑賞に至りました。
飯嶋和一(1952-)による原作小説『ブロミスト・ランド』は1983年に発表されています。
映画の時代設定もその頃が想定されているのでしょう。
ただ、主人公の部屋に置かれたラジカセや、山中で連絡を取り合うためのトランシーバーなどに時代感が一応示されてはいるものの、80年代前半の雰囲気が過剰に意識されている映画ではないようです。
東北の山間部にある町「檜原」が舞台です。
お世辞にも活気に溢れているとは言い難いその情景はむしろ現代の有り様をそのまま映し出しているようでもあり、ひょっとすると小説が描いていた80年代の方がまだ賑やかだったのではないかと感じられるほどです。
飯島監督はこの物語を、過去の話としての枠組みの中に塗り込めるつもりはなかったのかもしれません。
活力が消え失せた集落の空気がじっとりと映像から伝わってきます。
小林薫をはじめとするベテラン俳優たちが登場するのは初めと終わりの短い場面にすぎません。
主人公である二人、信行(杉田雷麟)と礼二郎(寛一郎)による「熊撃ち(くまぶち)」の一日が映画の大半を使って描かれています。
延々と二人が山の中を歩く光景が長く続きます。
獣に気配を感じとられないためなのか、お互いが抱く気まずさによるものなのか、おそらくその両方なのでしょう。
男たちは道中、ほとんど会話を交わしません。
結果として、台詞が極限まで削られる代わりに、沢のせせらぎや木々が風と引き起こす山の響きが映像を満たしています。
自然光だけで撮影されたとみられる山中の様子は、冬から春に向かっているとはいえ草花の色彩はなく、雪の白と山肌の黒、そして空の青さが際立っています。
もちろん数日に分けて撮影されたのでしょうけれど、俳優たちとスタッフに過酷な運動量が要求されていたことが長い山中のシーンからずっしりと観る者に伝わってきます。
映画「プロミスト・ランド」のもう一つの「主役」は、観光地でも登山名所でもない、東北の山々がみせる「素の自然による美しさ」です。
さて、檜原に暮らす登場人物たちは、それぞれにとても不機嫌です。
今年の春は役所から熊撃ちの許可が降りないことをマタギたちに伝達する親方下山(小林薫)は苦渋を噛み締め続けているかのように、その表情が和らぐことはありません。
信行の父(三浦誠己)はこうした事態や息子の不甲斐なさなど、あらゆる状況に不満を抱いていて、終始毒づいていますが、結局禁猟の沙汰をのみこむしかないことはわきまえているようです。
礼二郎は妻に逃げられてしまった庭師。
ライフルの手入れだけが楽しみになってしまったようなこの男はマタギの血脈を守るために禁猟の命を破る決断をし、信行を狩に誘います。
一方の信行は、不満が煮凝ったような父や周囲の雰囲気にうんざりしていて、「熊撃ち」についても本当は嫌で嫌で仕方がないという青年です。
しかし子供の頃、礼二郎から受けた輸血によって命を救われたことがあるため、彼からの誘いを断ることができません。
救いようがなく重苦しい人間関係がひどく閉ざされた共同体の中に織り込まれ、都会がもつ殺伐さとは別種の陰鬱さが漂っています。
特に三浦誠己の、時々聞き取れなくなるくらい方言を駆使した演技が素晴らしく、何もかもが気に入らない田舎の中年男そのもののイメージが創造されているかのようでした。
見つけた熊を射程内に追い込むため、信行が谷の下から雄叫びをあげながら山を登っていくシーン。
日光に向かって90度に折れ曲がりながら生える樹木が斜面の険しさを無言で表現する中、息を切らせながらひたすら駆け上がっていく信行の背中をカメラは執拗に追いかけていきます。
映像的な演出はほとんど施されていません。
結果として観ているこちらには、信行と同じように熊を追い込んでいるような感覚が生じると同時に彼の疲労感すらも伝わってくるかのようです。
叫ぶ力も無くなってきた頃、礼二郎のライフルが熊を射抜きます。
映画は熊が射殺される場面の代わりに、信行が礼二郎を見上げるその顔を写し出します。
「人は本当にやりたいことをやるようにできている」と語る礼二郎に反発していた信行の中に、「やりたいこと」が湧出してきたまさにその瞬間に、この場面において観客は立ち会うことになります。
「やりたいこと」とは「見つける」のではなく、身体の底から猛然と「湧いてくる」ものなのかもしれません。
この決定的場面に台詞はありません。
信行の面構えだけがその事実を伝えます。
ここでみせる杉田雷麟の表情が映画「プロミスト・ランド」、最大の収穫かもしれません。
信行が鶏に餌を与えるシーンが二度出てきます。
養鶏の仕事に嫌気がさしていた最初の場面と熊を撃って帰ってきた後の場面。
ここで監督は、熊を撃った後、仕事にやりがいを感じ元気いっぱいに働く信行を写すというような恥ずかしい演出を一切行なってはいません。
彼の養鶏場の中の動きは最初のシーンも最後のシーンもさほど変化はないのです。
しかし、決定的に違うところがあります。
鶏たちの動きです。
バタバタと暴れカオスのような状態だった最初の場面と比べ、最後の場面では鶏たちがやや整然と餌箱から餌を食べているようにみえます。
人間ではなく鶏にその人間の成長を暗示させるという見事な演出でした。
この映画では、場面が変わるところで映像が一瞬、ぶつりと途切れるようにあえて編集されている箇所がたくさん出てきます。
シームレスに場面を繋がないこうした手法によって映像は独特のゴツゴツとした質感を帯びます。
良い意味での荒削りさが出る効果がみられた一方、ちょっと緊張感が寸断される箇所もありました。
ドキュメンタリー的な風合いが企図されていたのかもしれません。
禁猟のルールを破った二人にどのような罰が与えられたのか、映画は観客にその解釈を委ねています。
しかし、ふたたび冬が過ぎ、山が引き起こすある「響き」を聞き取った信行の表情には、マタギの血脈が確実に受け継がれたことが示されています。
彫刻刀の粗い削り跡が残ったような、静かに力強い映画でした。