■2024年6月18日~8月4日
■京都国立博物館
1595(文禄4)年、高野山で自刃した豊臣秀次(1568-1595)の四百三十回忌に因んで企画された特集展示です。
平成知新館1階奥の3室があてがわれ、秀次所縁の寺院である瑞泉寺の所蔵品を中心に展示が構成されています(常設展料金内)。
寺が守り伝えてきた悲劇のレガシー「瑞泉寺裂」の美しさに惹き込まれました。
近世まで刑場でもあった鴨川には数々の暗い歴史が刻まれていますが、正面橋の「元和キリシタン殉教」と並び、豊臣秀次の妻子たち30数名が斬殺処刑された三条河原の一件は、とりわけその悲惨さが際立つ出来事として知られています。
現在は木屋町三条という歓楽エリアにある慈舟山瑞泉寺(浄土宗西山禅林寺派)は、秀次と処刑された一族を弔うために角倉了以(1554-1614)の支援によって、立空桂叔を開山として建立された寺院です。
秀次事件から16年と、まだ生々しさが残る1611(慶長16)年のことでした。
当時、角倉了以は高瀬川を開発するための土木工事を率いていました。
秀次一族の遺体は三条河原近くに埋められ、その上には塚が建てられていたそうなのですが鴨川の氾濫によりやがて荒廃。
工事を進める中でその残骸を発見した角倉了以がこれを整理し、菩提を弔うために設置された慰霊施設が瑞泉寺ということになります。
京と伏見を結ぶ水運の一大事業を成功させる上でも、高瀬川の至近で不幸な最期を遂げた一族の鎮魂は了以にとって霊的な対処として不可欠と考えられたのかもしれません。
この特集企画では、嵐山の大悲閣に伝わる有名な角倉了以の像を模したという彫像をはじめ、二条から五条にかけてあった角倉家地所の測量図など、高瀬川開発に関係した貴重な資料も展示されています。
豪商角倉家は了以の後も瑞泉寺への支援を継続しました。
1683(天和3)年、同家からの寄進により巨木が運ばれ堂宇が拡大されています。
秀次一族の辞世和歌を表装した一連の豪華な掛軸も角倉家のサポートによる制作と推測されています。
今回の寺外公開では20幅に及ぶ辞世和歌が展示されていました。
いずれも豊臣秀次と関係のあった女性たちが処刑直前に詠んだ歌です。
折り目が残る懐紙に記されているので本人による直筆のようにもみえますが、現実的にみれば後世の筆によるものであろうとされています。
辞世和歌が書かれた懐紙は小袖を切断した織物によって丁寧に表装されています。
これが「瑞泉寺裂」(ずいせんじきれ)です。
処刑された女性たちが生前に身につけていた衣服から切断されたという伝承をもってはいますが、これも実際には後世にあらためて制作されたものと考えられています。
といっても、いずれにせよ近世初期の貴重な染織工芸遺産であることに変わりはありません。
この特集展示で初めてまとめて鑑賞し、その独特の美しさに強く感銘を受けました。
非常に豪華な素材と高度な技巧が惜しみなく投入されています。
さらに驚くのはその保存状態の良さです。
染織類は実際に着用されることもあり、年月と共にどうしても傷んできますけれど、「瑞泉寺裂」は辞世和歌の表具として保存されてきたためか、細かい繊維の立体感まで損なわれることなく残っていることが確認できます。
修繕が丁寧に行われてきたのでしょう。
色褪せもほとんどありません。
江戸時代というよりも桃山時代の残照が感じられるほど、生き生きとした装飾性が印象的です。
独特の表装です。
一文字はなく、風体は概ね中廻しと同じ裂が使われています。
表装全体の文様や色彩バランスが和歌をそれとなく意識しているようにも感じられます。
例えば、秀次の側室であった右衛門後(えもんのこう 播磨国・村井善右衛門の娘)の辞世和歌では、天地にシックな茶系の地色を使いながら大胆な彩色の竹や鶴を配す一方、中廻しには鮮烈な紅色の裂が採用されています。
右衛門後の辞世歌は「火の家に なにか こゝろの とまるべき すゝしき みちに いさや いそ かむ」です。
これはおそらく法華経にある有名な「三車火宅の譬え」を意識した歌なのでしょう。
しかし関白秀次の側室という栄華を一時でも味わった右衛門後にとっては、突然秀吉によって奪われた幸福は文字通り「火の家」に変化していたともいえます。
表具師は処刑当時35歳頃だったというこの女性の無念を真っ赤な中廻しによって表現したのかもしれません。
一首単位で詠んだ人の略歴がキャプションによって示されています。
今出川(菊亭)晴季の娘であった「一の台」や四条隆昌の娘「おつま」のような公家出身の女性もいれば、一条あたりで拾われた捨て子とされる「おたけ」のように身分不詳の女性など、その境涯は実にさまざまです。
とりわけ悲惨なのは出羽の戦国大名、最上義光の娘、駒姫「おいま」でしょうか。
秀次に請われて上洛したもののほとんど彼に会う間も無いまま、理不尽にも縁があったという理由だけで処刑されています。
15歳だったそうです。
彼女の和歌には華麗な花模様の表装が採用されていました。
ところで、秀次妻子一族の亡骸の上に建てられていた塚は、ずいぶんとひどいネーミングなのですが、「畜生塚」と呼ばれていたことでも知られています。
これを題材として屏風絵を描こうとした画家が甲斐荘楠音(1894-1978)です。
楠音はその後半生、溝口健二監督の「雨月物語」などに代表される映画の時代考証、特に衣装美術の分野で活躍していました。
彼が「瑞泉寺裂」を実際に見たことがあったのかどうかはわかりません。
しかし、甲斐荘がデザインを手がけた時代劇衣装の中には、瑞泉寺裂に見られるような近世初頭の小袖がもっていた大胆さと可憐さを掛け合わせたような趣をもつものがあるようにも思われます。
結局未完となった「畜生塚」自体に瑞泉寺裂を想起させるイメージは全くありませんが、強くこの寺に想いを寄せていたのであろう甲斐荘楠音の中には、ひょっとすると今回展示されている辞世和歌が響いていたのかもしれません。
さて、京都国立博物館の北隣には豊臣秀吉を祭神とする「豊国神社」があります。
秀次一族を悲惨な死に追いやった張本人が祀られている場所のすぐ近くでこの「豊臣秀次と瑞泉寺」が開催されていることを思うと少し複雑な気分になってきます。
しかし、その秀吉自身、豊臣家滅亡後は神号を徳川家康によって廃されるという憂き目にあっているわけで、現在の豊国神社は明治に入ってから再興されたものです。
また、京博の南東には「智積院」があります。
ここの寺宝である長谷川等伯一門による障壁画は秀吉と淀君の間にできた最初の子供、鶴松の死去に伴って描かれたものです。
鶴松が亡くなったことにより、直系世嗣の誕生を断念した秀吉が関白に指名した人物が甥である秀次でした。
後に実子である豊臣秀頼が誕生することにより秀次は排されることになります。
結果的に鶴松の早すぎた死が秀次の悲劇につながったともいえます。
因縁深く鎮魂の響きが重なる東山七条です。