「落下の解剖学」がとった戦略|ジュスティーヌ・トリエ

 

2月23日からジュスティーヌ・トリエ(Justine Triet 1978-)監督の「落下の解剖学」(Anatomie d'une chute 2023)が公開されています(配給はGAGA)。

カンヌ国際映画祭2023におけるパルムドール受賞作品ですが日本でのシネコン公開期間はそれほど長く持ちそうにないので早めに鑑賞することとしました。

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まず、予想以上に正攻法で撮られたサスペンスドラマと感じました。

例えば同年のカンヌでコンペティション部門に出品され、この作品と競合した是枝裕和監督による「怪物」のように時系列を編み直すような構造で謎解きを展開するテクニカルな映画ではありません。

また同じく競合作であったウェス・アンダーソン「アステロイド・シティ」、アキ・カウリスマキ「枯葉」、ヴィム・ヴェンダース「PERFECT DAYS」のように監督の作家性を全面に押し出した作品でもありません。

人の死が描かれますが、派手なアクションがあるわけでは当然になく、主要な登場人物の数を絞った上で、場所もほぼ事件が起きる山荘周辺と法廷の中に限定されています。

一見、かなり地味な作品ともいえます。

しかしこの「落下の解剖学」は、非常によく構成されたシナリオと俳優たちの練達した演技、そして独特の戦略的設定が滑らかに混淆し、鑑賞後に独特の割り切れなさを感じさせる点でたしかに見応えのある映画でした。

 

設定自体に重層的な仕掛けがほどこされています。

舞台はフランス南東部、グルノーブルです。

パリやリヨンほど都会ではなく、近くには壮麗な山岳の風景を有しているものの隣国スイスほどに観光擦れしていない、この微妙に美しいフランスの一地方都市に環境を設定することで、視界の美観を確保しつつ不必要にノイジーな事物がドラマから排除されています。

観客は主人公家族3人のつながりと法廷での対話劇に自然と集中させられる見事な舞台設定です。

 


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もう一つ、この映画がとても巧妙に仕込んだ戦略が「言語」です。

ザンドラ・ヒュラー演じる主人公の女性小説家サンドラはドイツ人です。
しかし彼女が劇中でドイツ語を話す場面はありません。
といってフランス語をメインの言語として使っているわけでもありません。
サンドラはフランス人である夫や周囲とのコミュニケーションを図るための共通言語として「英語」使っているのです。

夫との喧嘩や法廷でのやりとりにおいて、どんなに感情が昂った場面でもサンドラはドイツ語を口にしてしまうことがありません。
あくまでも英語で感情を表現しています。

主人公はフランス語にやや不自由であるために、代わりに母国語ではない英語でコミュニケーションをとっているわけですが、この状況が彼女にとってかなりストレスフルであることを映画はあえて物語の終盤になるまで隠しています。

サンドラは悪意やエキセントリックな性格を持っているキャラクターとしては描かれていません。
しかし彼女の根底にはどこか周囲との緊張感を常に保持しているような微妙なよそよそしさがあるように感じられてきます。
母国語でも現地語でもない言語でコミュニケーションせざるをえないサンドラという女性の孤独を想像したとき、物語に一本の容赦ない緊張の糸が張られることになります。

サンドラをバイセクシャルと設定したことも映画に厚みを持たせると同時にクリティスクスの眼を巧みに惹き寄せる効果をあげたといえるでしょう。
ただクィア・パルムは「怪物」にもっていかれてしまいましたけれども。

 


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場所と言語、二つの設定に加えて「落下の解剖学」が組み込んだ最大の戦略的仕掛けが「隠す」ということです。

山荘から落下した夫の死因は事故なのか他殺なのか自殺なのか。

映画は自殺としての決着を表面的には描いているようにみえます。

しかし、「落下」そのものとそれに至るまでの夫の行動が映されるシーンは全くないのです。
この決定的場面の戦略的隠蔽によって観客はさまざまな想像を鑑賞後に巡らすことができます。

例えば夫はなぜ死ぬ直前、巨大な音量で音楽を再生していたのでしょうか。

その理由について法廷での検事は、サンドラが彼女にインタビューに来た女学生にレズビアンとしてモーションをかけていると認識した夫が嫉妬から会話を邪魔するためにボリュームをあげていたのではないかと指摘しています。

この検事説をとれば嫉妬するくらいの生気をもった人物が自殺するわけはないというロジックになり、夫の他殺、つまりサンドラによる殺人説を補強することになります。

映画におけるサンドラと女学生のシーンをみると実はまんざら検事の指摘が誤っていないようにみえるほどサンドラは上機嫌です。
本当に女学生を誘惑しようとしていたのかもしれません。
やはり夫はそれを見抜いて爆音による妨害を実行していたのかもしれないのです。

一方、夫は精神科医に通い、抗うつ薬を処方されていました。

彼はどうやら自主的な判断でその薬を減薬あるいは断とうとしていたことが示唆されています。

抗うつ剤を急にやめてしまうとさまざまな離脱症状が出ることが知られています。

耳鳴りや幻聴といった症状が夫に生じていたのかもしれません。
巨大な音量でかけられていた音楽はそうした離脱症状を強引に打ち消すために夫が苦しみながら再生していたと解釈すると今度は自殺説が有力になってきます。

しかし映画は夫の減薬断薬による離脱症状を具体的に描いてはいません。
アスピリンの大量摂取を仄めかすだけです。

視力に障害をもった息子が証言した父、つまりサンドラの夫の発言は、まるで彼が自分の死を暗示した遺言として「聞こえ」るように演出されていますが、実は単に飼い犬の一生について寓話的教訓として息子に語っていただけなのかもしれません。
裁判において醜い家族の実像を知らされた少年がやむなく捏造した記憶だった可能性もあるわけです。

つまり、夫の死が本当に自殺によるものだったのか、「落下の解剖学」は確かに「解剖」はしていますが、「証明」はしていないのです。

 

この映画は直接的な「落下」を映像としてあえて提示しないことで、家族や周辺環境自体の構造、関係性を炙り出していくという点で見事な内容を伴っています。

しかし同時にいくら論理的につきつめ「解剖」しドラマを丁寧に紡いでいっても、本当にあったことそれ自体にたどり着くことはできないという、極めて重いテーマを突きつけてくる戦略性を持った作品であるとも思えます。

 

「落下の解剖学」という邦題に意訳や妙な読み替えはありません。
原題そのままの和訳です。

これほど見事なタイトルも珍しいかもしれません。