MUCA展 ICONS of Urban Art 〜バンクシーからカウズまで〜
■2023年10月20日〜2024年1月8日
■京都市京セラ美術館
現在、京都市美で同時開催されている「井田幸昌展」と共に、おしゃれ系デートの出し物としてとっても好適な企画展ではないでしょうか。
もちろん、おひとり様アート好き女子男子の皆さんにもかなりおすすめできます。
私も存分に楽しみました。
でも、ちょっと考えさせられた展覧会でもありました。
MUCA=Museum of Urban and Contemporary Artは、ミュンヘン市内にある旧変電所の建物を改造し、2016年に開館した比較的新しい美術館です。
ストリートアート等を中心としてコレクションを拡大しているようですが、この分野に限らず、現代作家たちの特集企画展なども積極的に開催しているらしく、現在はダミアン・ハーストの個展(2023年10月26日〜)が開かれています。
この美術館はその方針の一つとして「ストリートアート、アーバンアートを美術史に記録する」ことを掲げています。
オーセンティックな美術館がまだ評価しきれていないストリート出身のアーティストたちに注目し収集することで、彼ら彼女らをモダンアートの座標軸に取り込んでいくという意味は大きいものがあると思います。
また、都市の中に出現したアートは、そのままでは風化したり損傷してしまうこともありますから、これを収集して保存するという行為は、一見、極めて合理的なことといえるかもしれません。
そうした「消えてしまうアート」の代表的な事例が、バンクシー(Banksy ?-)の作品ということなのでしょう。
本展ではこのアーティストの代表作がいくつか紹介されています。
火炎瓶の代わりに花束を投げる男が描かれた「Love is in The Air」や、「Girl With Balloon」といったアイコニックなスプレー画だけでなく、2017年に発表された大型作品「Ariel」も出展されています。
ただ、ここでちょっとおかしいなあ、という感覚に襲われたわけです。
「Ariel」のように初めから展示を目的として製作されたのであろう作品はともかく、「花束男」や「ハート型風船少女」のカンヴァス画については、これはもはや、「ストリートアート」といってしまって良いものなのかどうか。
こんな違和感を覚えてしまったのです。
描かれていた「壁」からグラフィクスのみが抽出され、カンヴァスに移されたバンクシーの「絵」自体は、実は相当に稚拙で俗っぽい図像にみえます。
よく眺めてみると、バンクシー作とされる絵画のほとんどは、あらためて言うまでもなく、どれも高度な技術や描画センス、新手法や概念をアピールしているものではありません。
はっきり言ってしまえば、とりたてて「モダンアート」として観る価値を感じない作品が大半なのです。
にも関わらず、この人の作品がこれだけ世間に訴求する力をもっているのは、作品の芸術的価値というより、そのユニークで機知に富んだ「メッセージ」性にあります。
今さら語る話ではありませんけれど、「バンクシー」とはアートというより極めて個別的な「メディア」の一種とも考えられます。
パレスチナの壁や、テムズ河畔の寂れた階段に描かれていたからこそ、バンクシーの作品はストリートアートそのものだったわけで、そこから切り離され「蒸留・抽出」されてしまったグラフィック自体は、逆説的ではあるのですが、むしろアートから離脱し、さらに「メディア」性を強く発するようになります。
それが証拠に「花束男」や「風船少女」はここで飾られているグラフィック自体を観る前から、すでに多くの鑑賞者にとって既知のアイコンであり、何を伝えようとしているのかがすっかり了解されている作品となっています。
ところで、「メディア」としての図像は必然的に「陳腐化」していきます。
結果として、バンクシー作品の多くには、メディアとしての価値が減退するにつれ、アートとしての稚拙さだけが残ってしまうように思えるのです。
登場した当初は「メディア」として生々しい価値をもっていたかもしれません。
しかしそれを「美術史に記録」するというもっともらしい目的で収集することは、作品が陳腐化してしまい、もはや見るに耐えない単なる通俗画に堕してしまっているにもかかわらず、超高額な対価を要した上でミュージアムに収められ、かつ、崇められるという、実に皮肉的な結果を生じさせてしまうとも考えられないでしょうか。
何が言いたいかというと、MUCAが行っている「ストリートアートの美術史への記録」という行為は、それ自体、ストリートアートを「無化」してしまうことにつながるのではないか、ということです。
ネガティブなことだけを言いたいわけではありません。
実際、本展に集められた作品の中には、ストリートあるいは都市から切り離されても、全くその芸術性(この言葉にも注意が必要ではありますが)を損ねていないものが数多く見受けられます。
この美術館が、著名なストリート&モダンアーティストなら闇雲に収集してしまう成金的コレクターにはない、一定の評価軸を備えていることは間違いのないところでしょう。
しかし、一方で、ストリートアートの持つ強烈にプロテスト的なメッセージ性は、ストリートにあってこそ、その価値が輝くものであるという視点も重要なのではないか、と思えます。
街頭からミュージアムに隔離された瞬間、ストリートアート、あるいはアーバンアートの多くが「凍結」あるいは「窒息」してしまうのではないか。
街頭や都市を舞台として強烈な自己主張を行ってきたアーティストが、「ミュージアムの中」や「美術史」、もっといえば「マーケット」をも意識して、その姿勢自体を変えてしまうこともあり得るかもしれません。
実際、商業主義や行き過ぎた資本主義への抗議として作品を都市にぶちまけてきたアーティストの中には、今ではすっかり大資本とコラボレーションして楽しげな作品を作っている人もいるわけです(それ自体は批判されることではありませんけれども)。
乱暴な言い方をすれば、こうしたアートを「収蔵」すること自体が随分と矛盾に満ちた行為なのではないか、とぼんやり考え込んでしまったという次第です。
ストリートアートとは、本来薄汚れ朽ちるに任せておけば良い芸術であって、それだからこそ「都市的」でもあると思います。
それを「美術史に記録」とか言われてしまうと、なんとなくちょっと田舎臭い行為なのではないかとも感じるわけです。
と、こんな小難しいことを考えながら、たっぷりと作品間のスペースがとられた東山キューブ内を、スマホ片手に回遊したのでした(写真撮影OKです)。
バンクシーやカウズに代表される、どう見てもダサっと思える作品を笑いとばしながら楽しめた一方、リチャード・ハンブルトン(Richard Hambleton 1952-2017)による「シャドウマン」たちの狂気に痺れることになりました。
素晴らしい体験でした。
なお、この展覧会、「図録」については注意が必要です。
私が購入したバージョンは京都展の前、大分展用に製作された図録の、いわば「売れ残り」でした。
これはこれで良いのですが、ちゃんと「売れ残りです」と告知してくれないと、買った後の気分がよくありません(「京都展用に製作されている版とは違う」、ということだけは告知されていますが、ラッピングされていたので中身は確認できませんでした)
京都展の後、東京展も予定されていますから、図録を買う際はどういう版なのか、きちんと確認されることをお勧めします。