ミカエル|カール・テオドア・ドライヤー

 

 

ザジフィルムズの配給でカール・Th・ドライヤー監督の作品群が渋谷のイメージ・フォーラム他、各地のミニシアターで上映されています。

「ミカエル」(Mikaël 1924)もその中の一本。

日本では2003年に開催されたこの監督の回顧特集企画で紹介されたことがあるそうですが、一般的な劇場での公開は初めてとなる作品です。

偶然でしょうけれど、今年はこの映画が公開されてからちょうど100年の記念イヤーにあたっていることにもなります。

初めて鑑賞しました。

 

カール・テオドア・ドライヤー セレクション vol.2 公式サイト|12/25(土)ロードショー


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サイレント映画ですが、2016年に再構成されていて、全編にテキストと新作の専用音楽が付加されています。

2Kレストアされた映像は、当然に一定の古さを感じさせはしますが、とても100年前の制作とは思えないくらいディテールまで美しく修復されていると感じました。

音楽はピアノとチェロ、クラリネットによるトリオで、総じてゆったりとしたテンポをとりつつ、1920年代のカフェミュージックをやや暗く現代風にアレンジしたような雰囲気をもっています。
映像とドラマの流れを邪魔しない範囲で終始奏でられていました。
(その一部はザジフィルムズによるYouTube「予告篇」冒頭で少し聴くことができます)

 

「ミカエル」はカール・テオドア・ドライヤー(Carl Theodor Dreyer 1889-1968)の長編第6作にあたり、第9作にして彼の代表作の一つである「裁かるゝジャンヌ」の4年前、ドイツで制作されています。

プロデューサーは「カリガリ博士」や「ドクトル・マブゼ」、「メトロポリス」といった1920年代のドイツ映画を代表する作品を手がけたエーリッヒ・ポマー(Erich Pommer 1889-1966)でした。

かなりコストがかかったとみられる凝ったセットや豪華な衣装はポマーの辣腕によって調達できたのでしょう。

また美術制作にドイツ表現主義の建築家で「有機的建築」を提唱したことで有名なフーゴー・ヘーリング(Hugo Häring 1882-1958)が関与しています。

19世紀的な雰囲気を残しつつも、立体的に見通しの良さが確保されたスタジオセット造形にはこの人のアイデアやテクニックが反映されているのかもしれません。

20年代のドイツ映画が持っていた独特のクリエイティブなエネルギーを感じさせてくれる一作といって良いと思います。

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すでに大家として名声を得ている画家クロード・ゾレ(ベンヤミン・クリステンセン)は、美青年ミカエル(ヴァルター・シュレザーク)をモデルとして自邸に住まわせています。

ある日、ロシアの貧乏貴族ザミコフ侯爵夫人(ノラ・グレゴール)が肖像画を注文するためにゾレ邸を訪れたところからゾレ-ミカエル-ザミコフの三角関係的な物語が展開していきます。

ゾレがミカエルに男性同性愛者としての親近感を持って接していることは明らかですが、この時代の映画ですから当然に露骨な性的描写は全く描かれていません。

本作の字幕を担当しパンフレットにも解説文を寄稿している小松弘によると、原作者であるデンマークの小説家ヘアマン・バング(Herman Bang 1857-1912)自身がホモセクシャルだったのだそうです。

「ミカエル」はバングの自伝的小説をベースにしていますからドライヤーはある意味忠実に原作を映像化しているわけです。

 

前半部分に登場するディナーのシーンにこの映画のキーとなる主題が提示されていると思いました。

ゾレ邸に招かれた客人たちが食事中、ある小さな絵画を回覧する情景が描かれています。

その絵とはおそらくポンペイ遺跡から出土した古代ローマ時代のモザイク画「メメント・モリ」の複製です。

 

メメント・モリ」の原画(2022年開催の「ポンペイ」展から 京都市京セラ美術館で撮影)

 

「死を忘れるな」と語りかけるこの絵を見て、恐れる者、単に即物的な現象ととらえる者、あるいは貴族としての伝説的終焉を夢見る者など、さまざまな感想が語られていきます。

ゾレは客人たちのそんな会話から新しい絵画の創作意欲が湧きインスピレーションを受けたと発言し、「養子ブルータスに殺されるシーザー」をその題材にするとミカエルに語りかけます。

ミカエルを養子にしているゾレがまるで自身の最後を暗示するかのように「死」を想起するこの場面が物語全体への重要な伏線となっています。

 

ゾレという人物はその愛情をヘテロセクシャルの青年ミカエルに理解してもらおうとはもはや期待していないようにみえます。

若く美しいザミコフ侯爵夫人と交際するミカエルにイラつきながらも資金や住居まで援助し、恩を仇で返し続ける彼の行動に強く感情を揺さぶられているのに、結局は全てを受け入れていきます。

ゾレにとってミカエルは身勝手な若者であると同時に、唯一の「家族」であり、創作の源泉、つまり「ミューズ」だったということなのでしょう。

この極めて悲劇的で複雑な性質をもった画家を演じる名優ベンヤミン・クリステンセン( Benjamin Christensen  1879-1959)の気高く重厚な表現力に圧倒されました。

 

美青年を利用し愛しつつも結局は自身の死によって終止符を打つしかない老大家という設定はすぐに三島由紀夫の『禁色』を連想させます。

ゾレの描くミカエルをモデルとした絵画はギリシア・ローマの若き男神をイメージしたような古典風作品のようです(「クロード・ゾレ」の名は当然にクロード・モネに引っかけられていますが、劇中、印象派風の絵画は全く登場しません。余談でした。)。

『禁色』で老小説家がとらわれてしまう悠一も「アポロン」のような美を容姿にもつ青年として登場します。

しかしこの映画は三島小説の四半世紀以上前に制作された作品です。

不思議な共通点を感じさせる「ミカエル」と「悠一」です。

 

ところでもう一人、この映画の中で自滅的に死んでいく人物が描かれています。

人妻アリス(グレーテ・モスハイム)と不倫関係をもってしまう貴族モンティウー(ディディエ・アスラン)です。

結局彼は不倫の現場を目撃され、夫であるアーデルスキュルドとの決闘に破れて哀れな最期を遂げるのですが、「貴族モンティウーとしての最期」に甘美な陶酔を感じながら事切れるシーンは滑稽であると同時に一つの時代の終焉を象徴しているようでもあります。

後の作品で「宗教」や「死」を正面から取り上げていくことになるドライヤーの演出と映像表現は、この「ミカエル」の時点ではさすがにまだ「時代」を感じさせはしますが、すでに研ぎ澄まされた美観と一種の荘厳さを備えていて、それは対照的な死を迎えるゾレとモンティウーに共通して現れているとも感じます。

 

95分間、陶然とさせられる耽美系ワイマール映画です。

得難い鑑賞体験でした。