ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山口晃
ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン
■2023年9月9日〜11月19日
■アーティゾン美術館
現代日本のアーティストとアーティゾン美術館のコレクションが共演する「ジャム・セッション」シリーズ。
第4回は山口晃(1969-)の登場です。
想像以上に刺激的なセッション、でした。
最初に鑑賞者を出迎える、ある小部屋が用意されています。
「汝、経験に依りて過つ」(2023)という哲学的警句のごときタイトルがつけられた空間。
安ホテルのクロークのような室内に、飲み物の瓶やグラス、ハンガーにかけられたジャケットなどが置かれています。
入室して一瞬で強烈な違和感に襲われます。
久しぶりに「脳」が直接的に危機を感じるレベルの体験でした。
視覚情報と体感情報が一致しないと、こうも人間は大混乱を起こしてしまうものかと、恐ろしくなるような部屋です。
そして、作品タイトルが言わんとしていることが、まったくその通りだったことに気がついて、さらに慄然とします。
確かに「眼で見て経験してきたこと」の正当性が揺さぶられる部屋なのです。
こういう一種のトリック空間は、例えばアミューズメント体験を主体とした施設ならば、ありそうな仕掛けとして身構えることができるのですが、なにせここは京橋にある立派な美術館です。
小部屋の前後に待機しているスタッフさんから「足元にご注意」のアナウンスがあったのに、まんまと罠にはまってしまいました。
山口晃は、この強烈トリックアート空間をまず鑑賞者に体験させることで、「経験してきた感覚」にリセットをかけることを企図したのかもしれません。
ここからの鑑賞には、当然に、こちらも身構えることになりました。
しかし、身構えていたにも関わらず、そのさらに上をいく作品が用意されていました。
「モスキートルーム」(2023)と題された白いキューブ状のスペースがそれです。
真っ白い壁に白一色の照明。
内部には何も置かれていません。
よく見ると、中央の壁に何やら山口自身が書いたとみられる小さい「メモ」が貼られています。
そこには、以下の内容が手書きで記されていました(原文はタテ書です)。
壁に程よく近付いて
視界が一面に真っ白くなる所で
しばし立ち止まってみて下さい
そして眼球を上下左右に動かしてみて(ピントを合わせる感じで)
その中に居る小さな自分を
感じていただけたら御の字です
上記「メモ」の通りに眼を動かしてみました。
不思議なことに、白い壁の存在が、消えていきます。
代わりに「眼球の中身」がじわじわと実感されはじめます。
自分の眼の中はこんなに汚れているのかと、気分がどんよりしてきました。
「メモ」の最後に、「部屋を出て右の壁に解説マンガがございます」とあったので確認してみると、「モスキートルーム」、そのタイトルの秘密が明かされています。
この真っ白い空間は、「飛蚊症」を鑑賞者に実感させるための装置だったのです。
飛蚊症は、おそらく、かなり多くの人が経験している眼の症状です。
青空などを眺めたとき、糸屑のようなものが浮かんでみえることがあると思います。
あれです。
私はこの「目の中の糸屑」に子供の頃から気がついていて、これが加齢に伴って進行するどうしようもない眼病(というより老化)と知ってからは、どんどん増えてくる糸屑に親近感すら覚えていたのでした(老化現象とは違う深刻な病気としての飛蚊症もあるそうなので注意は必要です)。
しかし、山口晃がこの「モスキートルーム」で体験させようとしていることは、眼の中の「糸屑」それ自体ではありません。
飛蚊症を通して、「眼球」そのもの、ひいてはその「眼」が、もう一つの「小さな自分」ではないかということを鑑賞者に伝えようとしているのです。
山口晃画のマンガを読んだ後に「モスキートルーム」を再体験すると、そのことがよりはっきりしてきます。
糸屑の動きが明らかに「球」の中で起こっていることに気がつくのです。
蚊のようなゴミ屑は、右から左、あるいは上から下といった、一方向に流れ去ってはくれません。
透明な液体の中、渦を巻くように眼の中で舞い泳いでいるように感じられます。
そして液体にはどうやらそれを囲っている「球」の膜があることが体感されてきます。
それこそ「眼球」そのものです。
普段、眺めている世界は「丸く」はありません。
でも「モスキートルーム」の中では、視界は「球」に還元されてしまうのです。
びっくりの新体験でした。
ところで、最近、中公新書として刊行された精神科医、春日武彦の著書『恐怖の正体:トラウマ・恐怖症からホラーまで』の中に面白い指摘をみることができます。
それは「眼」にまつわる考察です。
春日は、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する「目玉のオヤジ」を引き合いにだしながら、「眼」がその人間本体とは別の存在として認識されうることをスリリングに解説しています。
「モスキートルーム」の中に貼られた「メモ」の中で山口が書いている「その中にいる小さな自分」とは、「眼球」を全身感覚から別個の存在として意識したときに現れる現象、「自分の中の目玉のオヤジ」のことなのかもしれません。
愉しくもゾッとします。
精神科医よりも、アーティストの方が「眼の本当の恐怖」を伝えてくれているようです。
会場入り口の小部屋の中で、視覚と体感の不一致による衝撃を嫌というほど堪能させられたのに、この「飛蚊症空間」でも、今まで意識したことのない、視覚と全身の「別個感」を認識させられました。
またもや山口晃からの一撃を喰らってしまったわけです。
「見えているもの」に漫然と接している感覚に対する山口晃の徹底的なリセット術は、現代と過去、例えば「東京」と「江戸」を混淆させる彼の絵画表現と通底した関係にあるのかもしれません。
あまりにも具体的かつ情報量過多な大俯瞰地図「東京圏1・0・4輪之段」などをみると、細部に描かれた時代はとことんバラバラなのに、全体はしっかり「東京」を維持しています。
普段、なんとなく眺めている東京23区の大型地図が脳裏にあるのですが、眼が「東京圏」の中でそれを確かめようとすると、そこには「失われた過去」が顔を出してきます。
経験によって把持されているはずのイメージが、細かく丁寧に覆っていく快感を覚えます。
徹底的に「眼を疑いながら眼で描く」このアーティストの多次元的視野はあまりにも独特で徹底されています。
結果、描かれている図像自体は極めて分かりやすいにも関わらず、全体と細部が、各々、虚構とリアルの境界を往来するかのような運動を引き起こし、観る者を巻き込んでいきます。
気がつけば、山口晃が創造した地図やパノラマの中で遊んでいる自分がいるわけです。
楽しくも、ちょっと怖いアーティストです。
さて、山口晃が今回の「ジャム・セッション」でメインの作品として選んだ石橋財団コレクション中の一枚は、偶然にも前回の「柴田敏雄X鈴木理策セッション」と同様、セザンヌの「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」でした。
柴田と鈴木が静かに自作とセザンヌを語らわせていたのに対し、山口は独特の直感的アナリーゼをこの作品に加えながら、ごく限られた色彩だけを置いた「セザンヌへの小径(こみち)」(2023)を発表しています。
セザンヌも「眼」が固まらない人です。
動き回るセザンヌの「眼球」から山口晃がとらえようとした「色」が美しい作品でした。