“みかた”の多い美術館展
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■2023年10月7日〜11月19日
■滋賀県立美術館
滋賀県美が、館蔵品を中心としつつ、単なるコレクション展ではない、企画の面白さで魅せようという特別展です。
昨年の「石と植物」展(2022年9月23日〜11月20日)に続く同様の試みであり、2021年のリニューアル後、意欲的な展示を継続しようというこのミュージアムの姿勢がみてとれる内容でした。
カラフルで親しみやすいポスターなどのアートワークから、本展が親子連れ等を意識したキッズ向けの催事であろうことが想像できると思います。
実際、ふりがなを多用したカジュアルな解説文を掲示したり、出口付近には子どもたちが創作できるスペースをも用意するなど、その通りの演出や仕掛けが施されています。
また、なんと今回は会場内での「おしゃべり」までが解禁されていて、作品の前であれこれ語り合うことが促されていたりもします。
親子間、あるいは、子ども同士の、アートを媒介としたコミュニケーションの楽しさを実感してもらおうという企画意図が伝わってきます。
しかし。
この展覧会が意識している鑑賞者はキッズだけではありません。
視覚に障害がある方や、車椅子で鑑賞される人など、低年齢層を含め、「美術館に来難い人たち」を呼び込もうとしているのです。
いわゆるアール・ブリュットの作家たちと積極的に関わりをもつことを運営方針の一つとしているこの美術館の基本的な姿勢が影響、反映されている企画ともいえそうです。
子ども向けだからといって、展示品の内容に手心が加えられているわけではありません。
例えば、あるコーナーには、元永定正、田中敦子、白髪一雄といった「具体」の巨匠たちによる絵画がまとめて展示されています。
十分、今となっては「大人びた」作品たちです。
でも、少し展示されている「高さ」がいつもと違うことに気がつきます。
どの絵画も床面ギリギリのところまで低く設置されているのです。
この措置は、低身長の子どもたちに加え、車椅子で鑑賞される方を意識したものです。
結果として、「普通の大人」には少し鑑賞しにくい状態に感じられるかもしれないのですが、企画の意図に気がつくと、新しい「みかた」につながるのではないかとも思いました。
自分が幼い頃、こんな風に、「目の上」ではなく、「目の前」に抽象の色が弾ける場面を体験していたら、どんな感想をもったのだろうか、とか。
精神的にも肉体的にも眼が澱んでしまった現在の自分ではなく、まっさらな状態で視ることができたなら、白髪や元永の色やタッチ、田中の「丸」をどう感じただろうか、とか。
おそらく、今よりはるかに鮮烈に彼ら彼女らの作品を浴びることができたように思います。
そういう「あり得たかもしれない過去に戻る」ような感覚を得ることができました。
また、「触覚」の楽しさを提供してくれるコーナーもあります。
一部の作品は、実際、手で触れることが許可されています(「乗る」こともOKな作品まであります)。
さらにこの発想は常設展コーナーにも拡大されていて、目の前にある作品の「凹凸」を再現した点字アートともいうべき「触図」が紹介されています。
中には、伊庭靖子の作品のように、写真として撮られた陶器の質感を、実際の大理石で擬似体験できる仕掛けも展開されていました。
視覚に障害をもった人に向けた鑑賞アイデアではあるのですが、単に作品を視認することでは得られない「新たな感覚」が提供されるという意味で、「見えている」鑑賞者にも刺激的な試みだったと思います。
さて、この企画では「視覚」だけではなく、「聴覚」の意味をも問い直す作品が紹介されています。
百瀬文(1988-)が制作した映像作品「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」です。
2013年に制作されたこの作品は、2020年に京近美が作家自身を招いたシンポジウムで取り上げるなど、10年前の映像にも関わらず、その重要性がむしろ近年増している珍しい映像といえるかもしれません。
私は今回、滋賀県美内ではじめて鑑賞しました。
約25分間、非常に衝撃的な内容でした。
百瀬文と「対話」している木下知威氏は生まれつき耳が聞こえない人です。
にも関わらず、彼はしっかり発音し、百瀬と手話ではなく「音声」でコミュニケーションを行っています。
百瀬自身も映像の中で驚いているように、木下氏は全く「聴覚」という機能を生来もっていないのにどうしてこんな「発話」ができるのか、まず、びっくりします。
字幕によるサポートがあるものの、彼の発音とイントネーションは、十分、「日本語的」ですらあります。
木下氏は声帯の機能を「聴覚ではない身体感覚」で調整し発声を行いつつ、相手の話している内容は口の動きなどや前後の文脈から類推し認識しているそうです。
と、最初のうちは、木下氏のコミュニケーション能力に関する百瀬によるインタビューという、内容自体はとても興味深いものの、いたって「普通」の映像が流れていきます。
しかし、途中からおかしなことになっていくのです。
百瀬は彼女がもっているある「機能」を歪めたり消し去った上で、木下氏と会話を続けます。
普通にコミュニケーションをとりあっている者からみると、百瀬の行為は奇妙な一人芝居のようにもみえます。
でも、木下氏はそんな百瀬が実行している「歪ませ」「消去」に気がつくことなく、対話を懸命に進めていきます。
この百瀬の行為については、一瞬、木下氏へのとんでもない意地悪、あるいは愚弄なのではないか、と感じたりするかもしれません。
ところが、次第に、これは百瀬が「聴覚」、あるいは「言葉」そのものの意味を鑑賞者に、極めて真摯に問いかけているのであろうことに気がつくことになります。
「聞こえる」とはどういうことなのか。
「言葉」が伝わるとは、どういうことなのか。
天地が逆転するような衝撃を覚えました。
さらに語弊を承知で言えば、本当に「知覚的に優位」にある存在は、百瀬文なのか木下知威なのか、わからなくなってくるのです。
何をもって「表象」の実体とするのか、根源的な問いを投げかけてくる作品です。
似非ポリコレ的な風潮が高まっている現在、浅薄な見方を為された場合、勘違い系の批判をうけて炎上しそうな内容ですから、広くオープンにできる映像ではないかもしれませんが、これは多くの人が見る機会を持った方が良いと思われる傑作です。
「"みかた"の多い美術館」という本展のタイトルは、「見方」のことを指しているわけですが、もうひとつ、「味方」という意味が込められていると考えることもできます。
美術館は、何があろうと、あらゆる鑑賞者の「味方」である。
実に頼もしいことを言っているタイトルとも受け取れそうです。
本展は、子ども向けの企画としてイメージしてしまうと、瀬田まで足を運ぶ「大人」は少ないかもしれませんが、土日祝日などを避ければむしろ静かな環境の中で鑑賞できるかもしれません。
内容としては、十分、大人向けでもある展覧会です。