国芳・芳年が主役ではない幕末明治絵師展|サントリー美術館

 

激動の時代 幕末明治の絵師たち

■2023年10月11日~12月3日
サントリー美術館

 

幕末明治の絵師特集ときくと、近年は歌川国芳の化物絵や月岡芳年の無惨絵が大流行りですから、この企画も、また、その方面の浮世絵等が中心の内容かと予想していました。

実際、本展のアートワークには芳年の武者絵や歌川芳艶の芝居絵が派手に取り込まれていて、それらしい雰囲気が訴求されているようにもみえます。

 

しかし、実態は違いました。

もちろん国芳芳年も登場してはいるのですが、あくまでも"one of them"の扱いです。

本当の「主役」は別の絵師たちでした。

とても素晴らしい方向に予想を裏切ってくれた見事な展覧会です。

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国芳芳年も、もちろん、嫌いではありません。

ただ、このところ彼ら幕末明治浮世絵師たちの展覧会がやや多すぎるような気がしています。

はっきり言ってしまうと、少し食傷気味なのです。

 

サントリー美術館も、そのあたりの傾向を意識していたのかもしれません。

一定の客寄せ機能を国芳芳年小林清親あたりにもたせながら、実態的には、彼らだけではない、実に多彩な絵師、画家たちを取り上げていて、内容の充実度はむしろ浮世絵一派以外の作品に高く示されていると感じました。

 

展覧会の冒頭で紹介されている絵師は、文字通り江戸幕府と命運を共にしてしまった大絵師集団狩野派、その最後を飾った人たちです。

木挽町狩野家9代、晴川院養信(1796-1848)による屏風などには、江戸時代を通じて画壇を実質的に支配してきたこの流派がたどりついた最後の典雅なスタイルが示されています(この家は次の10代雅信の代で終了します)。

時代を意識しそれなりに新しいスタイルを模索していたとはいえ、狩野派正統の、もはや毒にも薬にもならない穏やかに形式的な絵画は、主な発注者の一群である上層武士階級が没落すれば、ニーズもろとも消え去っていくしかありません。

ただ、逆説的に考えると、これから勃興してくる多彩な幕末明治の異様なスタイルを持った絵師たちの「踏み台」として機能したとも言えるわけで、最初に末期狩野派の作品を紹介することは、本展全体の構成上、とても意味があることと感じました。

 

他方、同じ狩野を名乗る絵師でも、奥絵師系とは違う、狩野了承(1768-1846)や狩野一信(1816-1863)といった人たちは、肌感覚として、もはや伝統的な狩野派の手法が通用しなくなってくることを予知していたようなところがあります。

 

狩野了承「二十六夜待図」

 

了承の「二十六夜待図」は、主に墨の濃淡だけで江戸湾の夜景をとらえているのですが、明らかに従来の水墨画の手法とは異なり、西洋遠近法の視点や陰影表現がとりこまれているように感じられます。

美術史的に全く関係はありませんが、狩野了承が生きた時代は、偶然にも英国でターナーが活躍した時期と重なります。

了承が描いた海と空の織りなす微妙な水蒸気感や光の表現は、やや大袈裟にいえば、もう一歩でターナーの域に迫るようでもあります。

ただ、山々の向こうにみられる金色のラインは、曙光でも夕映でもなく、阿弥陀・勢至・観音の三菩薩が放っている光線です。

純粋な風景画ではなく奇妙に宗教的要素が入り混じるところが、今みると、逆に面白さにもつながっています。

 

狩野一信の画風は、さらに一層、エキセントリックな方向に振り切り始めています。

増上寺の強い要請に応えて制作された「五百羅漢図」をみると、羅漢たちの表情は仏弟子というより剛力を持った魔人のようであり、地獄から衆生を救っている図像にも関わらず、まるで鬼や龍たちと一緒に罪人を懲らしめているのではないかとすらみえてきます。

強烈なキャラクター性が画像に投影されていることに加え、このシリーズには、突如として西洋風の濃い陰影法が取り入れられたりするので、ますます画像は不気味さを伴い、有り難みより奇天烈さが強く発散されることになります。

新しい手法を貪欲に吸収しつつ、当時の増上寺がもっていた強い宗教的危機感をも狩野一信は絵筆で体現しているようです。

圧倒されました。

 

異端的狩野派絵師たちと並び、本展で異様な存在感を放っていた画家が菊池容斎(1788-1878)です。

 

大作「呂后斬戚夫人図」が静嘉堂文庫から出張展示されています。

みるもおぞましい、漢代中国で起きたとされる残酷なエピソードが巨大画面に展開しています。

呂后が、夫であった高祖劉邦の愛人、戚夫人をじっくり無惨に痛めつけていくプロセスを、容斎は巧みな構図配置と細やかな描写で丹念に描き込んでいます。

左上から、戚夫人がまず捕縛されて髪を切り取られ、さらに四股を切断された上で晒しものにされるという、一連の経緯が流れるように接続します。

凄惨な場面の右には、大きく宮殿風の建物が描かれ、惨たらしく変容していく戚夫人の様子を冷徹に眺める呂后と宮廷の女官たちの姿が、こちらは古典的といっても良いくらい繊細な色彩と線描で表されています。

あまりにも巨大な作品なので、図録写真などではよくわからないのですが、鑑賞者の視点に応じて、無惨絵と古典絵画が切り替わるという、異様な構成をもった作品です。

 

菊池容斎呂后斬戚夫人図」(部分)

 

この作品の発注者とされている人物が、久貝正典(1806-1865)です。

幕府旗本であった久貝は、もともと御家人出身の菊池容斎とも親交があり、本作と同様に「馮昭儀当逸熊図」「阿房宮図」といった容斎作品(いずれも静嘉堂文庫蔵)の発注者も彼とされています。

呂后の凄惨な悪行をこれほどの大作にして容斎に仕上げさせるという久貝正典の趣味とはどんなものだったのか、興味が尽きません。

この人は安政の大獄に処断側として強く関わったとされています。

役目だったとはいえ、「呂后斬戚夫人図」の有り様をみると、ひょっとすると、もともとこの人はサディスティックな一面をもっていたのかもしれないと邪推したくもなります。

本作は、いわゆる「異時同図法」が採用されているのですが、図録の解説(P.152)によれば、画面上方より下部に向かって次第に惨たらしく変容していく女性の様子が描かれている構図から、仏教図像スタイルの一つ「九相図」を容斎は典拠としていることが指摘できるのだそうです。

たしかに「九相図」の流儀に従えば、最も残酷なシーンである、四股を切断され青黒く変色した戚夫人が吊るされている部分が画面の一番下に描かれることになります。

でも、これは座った鑑賞者が最も「見やすい」位置に描かれているともいえます。

久貝正典が最も鑑賞しやすいコーナーであることに配慮して容斎が最悪のシーンを描いたとすれば、これはもう一種のサイコホラー映画の世界です。

以上、ちょっと妄想してみました。

 

安田雷洲(?-1859)による西洋遠近法の実験的銅版画の数々などもまとめて紹介されていて、学術的な面白さも本格的に追求されている素晴らしい展覧会です。

ただ、期間中、ほとんど総入れ替えと言っても良いくらい、展示替えがあります。

前後期の別は明示されていませんが、主に11月8日から実質的な後期が始まるとみられます。

メインビジュアルの一つとして図録表紙に採用されている雷洲の「危嶂懸泉図」(平野政吉美術財団蔵)も11月8日からの展示で、これも凄そうな絵画です。

もう一度、ミッドタウンまで足を運ぶことになりそうです。