千種掃雲の回顧展|京都国立近代美術館

 

 

生誕150年/没後80年 千種掃雲

■2023年12月21日~2024年3月10日
京都国立近代美術館

 

京近美4階のコレクション展示コーナーで、明治から昭和前期にかけて活躍した日本画家、千種掃雲(ちぐさ そううん 1873-1944)の特集が組まれています。

昨年が彼の生誕150年、今年が没後80年のアニバーサリー・イヤーにあたっていることからの企画です。

 

常設展の一種ですが、前期(2023年12月21日~2024年2月4日)と後期(2月6日~3月10日)に分けて70点近い作品を展示するという、このあまりメジャーとはいえない画家にしては非常に力の入ったレトロスペクティブ。

内容からみてこれは立派な「千種掃雲展」といっても良いのではないかと感じました。

www.momak.go.jp

 

かなり異色な経歴と画業で知られる人です。

 

京都の良家に生まれながら、生家が没落したため、15歳の若さで神戸市長宅の玄関番として暮らしていくことを余儀なくされています。

その市長さんが実に良い人だったらしく、掃雲の画才を見抜き、神戸で外国人向けの美術品制作を行なっていたという茨木翠岳の下に弟子入りさせてくれたのでした。

なお、時代的にみると当時の神戸市長はその初代を務めた鳴滝幸恭(1849-1925 在任期間1889-1901)ということになります。

この人は京都出身で実家は寺に仕える武士だったようですから、もともと千種家と何か関係があったのかもしれません。

 

さて、画才を開花させた掃雲は神戸を離れて京都に戻り、竹内栖鳳(1864-1942)の画塾で腕を磨くことになりました。

ただ、掃雲は栖鳳の弟子になったといっても年齢的には師匠と10歳も離れていません。

山元春挙(1871-1931)や上村松園(1875-1949)、木島桜谷(1877-1938)等とほぼ同年代ということになりますから、明治近代の京都画壇が最初に華開いた頃に活躍した世代に含まれる人です。

ところが、そうしたスター画家たちと比べると、千種掃雲からはいかにもマイナーな存在にとどまっている印象を受けます。

 

千種掃雲「土塀の続く道」

 

この画家は栖鳳の門人であったにも関わらず、彼を説得して許可を得た上で、当時、浅井忠(1856-1907)が開いていた聖護院洋画研究所にも通うようになります。

今回の特集では、掃雲が描いた夥しいデッサン類や、典型的な浅井忠スタイルの洋画なども展示されています。

初めて観ました。

非常に優れた掃雲の筆力を確認することができると思います。

師匠の栖鳳も写生の名手でしたが、西洋画の技法によるデッサンは全く日本画とは違うわけで、短い間にこれだけのテクニックを浅井忠のもとで身につけた掃雲の画才に驚きます。

ただ、そうした日本画と洋画、双方でそれなりの絵を描いてしまう「器用さ」が、逆にこの人の、特に明治期における作品の「薄さ」につながっているようにも感じられます。

 

千種掃雲「秋郊」(部分)

 

日本画の軽妙なタッチと洋画のリアリズムを掛け合わせたような千種掃雲による風俗絵画からは、とても親しみやすく明るい印象を受けます。

ただこの時代の代表作である「つれづれの日」(後期展示・前期は下絵が展示されています)にみる深い心理表現などを例外として、どれもなんとなく表層的にキャラクター造形された人物が目立つように感じられるのです。

 

千種掃雲「池の面」(部分)

 

ところが大正末期から昭和初期に入ると、俄然、画風に緻密かつ豊饒な気配が出て、作品の品格が素晴らしく高いものに仕上がってきます。

 

私が好きな千種掃雲は、この頃の作品からです。

 

大作屏風「池の面」(1926)などには、まるでピュヴィス・ド・シャヴァンヌが描く水辺のような、淡く象徴的に美しい景色があらわされています。

昭和初期に描かれた「神苑新緑」では、あえて地味な建造物を主役にしながら、背景の木々と絶妙な色彩関係を構築していて、日本画的な洗練と洋画的構図が見事に融合しています。

メインビジュアルに採用されている「南国」(1927)に描かれた黒猫の表現をみると、全く「媚びる」ところがなく、背にしている様式化された植物とともにモダンなセンスすら感じます。

明治期作品にある、やや紋切り型にキャラクター付けされた人物表現が、昭和に入るとほとんどみられなくなり、写実と象徴性が兼備されたこの人独特の画風が確立されてきます。

 

千種掃雲「神苑新緑」(部分)

 

ところが、こうして独自のスタイリッシュな日本画を生み出していたにも関わらず、千種掃雲は全く「別の姿」を描くことにもこだわっていました。

彼が先祖として仰いだ南朝方の廷臣、千種忠顕を題材とした作品群です。

掃雲の本名は「顕男」です。

千種忠顕とのつながりを幼い頃から意識していたとしても不思議ではありません。

 

この公卿を描いた作品は、風景画とは当然にテーマ自体が違うわけですが、そのスタイルも全く異なる典型的な歴史画の一種として描かれています。

掃雲自身は終戦前に亡くなってしまいますが、こういう絵を描いてしまうと、後代、戦前戦中における復古主義者ではないかとみられてしまうことにもつながってしまいます。

千種掃雲が今一つメジャーになりきれないのはこんなところにも理由があるのかもしれません。

 

千種掃雲「忠顕卿奉帝脱隠岐之図」

 

官展で入賞するなどの実績をもたなかったため、結局、画家としてだけでは生計が立てられなかったのでしょう。

教育者として京都市内の学校で教鞭をとっていました。

教え子の中には、後に菊池契月門下で大成する梶原緋左子(1896-1988)がいます。

 

これだけの規模で千種掃雲が回顧される機会は滅多にないと思います。

地味ではありますが、とても貴重に素晴らしい特集企画でした。

 

千種掃雲「南国」