ヴィム・ヴェンダース PERFECT DAYS|寓話的東京の日常

 

年末年始のシネコン混雑状態も終息したようなので、ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders 1945-)監督による話題作、「PERFECT DAYS」を観てみました。

 

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「ありそうなリアル」と「ありえないリアル」の中間、その境界が描かれているような作品と感じました。

とても不思議に魅力的な映画です。

場所も人物も出来事も、全て現実にある、あるいは、ありそうな事物として描かれているのに、奇妙につきまとう「リアリティの希薄さ」が独特の味わい深さにつながっているようです。

一見、現代の東京におけるありふれた光景がリアルに写されています。

でも、この映画は、実はある種の「寓話」であって、現実世界というよりも、お伽噺に近いことが表現されているのかもしれません。

 

淡々と所作までがルーチン化された生活を送る老年男性の日常が写されていきます。

起床し布団を折り畳む仕草から就寝前の読書まで、徹底して同じことの繰り返し。

すぐにある映画を連想しました。

シャンタル・アケルマンの傑作「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」です。

デルフィーヌ・セイリグが演じたあの映画の主人公も、役所広司扮する平山と同様、起床してから寝るまで、ほとんど生活のパターンとリズムが変わりません。

アケルマンはそこにルーチン化された日々の中で起こってしまったある女性の悲劇を徹頭徹尾冷徹にリアルな視線で描きこんでいました。

「PERFECT DAYS」で繰り返される主人公のちょっと異常にも感じられるパターン化された生活の流れも「ジャンヌ・ディエルマン」のそれと酷似しているように感じられたのです。

 

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しかし、同じようにルーチン的な日常を送っているのに、「PERFECT DAYS」における平山という男はなんとなく毎日楽しそうに暮らしていて、ちょっとしたハプニングに巻き込まれることはあっても「ジャンヌ・ディエルマン」のような破滅的結末に至ることはありません。

いたって平凡な日々が続き、ちょっとした波風がたつものの、結局そのまま終わる映画です。

 

しかし、次第に平山という存在の不可思議さがじわじわと滲み出してきます。

アケルマンが仕掛けたカタストロフのような結末はないものの、実は「PERFECT DAYS」の主人公も「ジャンヌ・ディエルマン」級にかつて悲劇を体験した人物なのではないか、そんな気配が漂ってくるのです。

 

ところでこの作品は、東京を離れることがない映画です。

しかもその場所は平山が住む墨田区あたりと公衆トイレが点在する渋谷区の大きく二つのエリアにほぼ限られています。

平山がアパートからトイレ群に車で向かうまでの間、幹線道路や首都高の景色が写されますが、特にこれといって有名なエリアが登場するわけでもありません。

 

建築家の槇文彦は、かつて東京のことを「密実な葡萄状都市」と定義していました。

新宿や渋谷、銀座や六本木などなど、それぞれのエリアがそれぞれにブドウの一粒一粒のように薄い皮膜をもって独立していながら、全体としては「一房のブドウ」として、東京というメガロポリスを形成しています。

墨田区と渋谷区という、およそ交わることがないブドウの一粒同士は、平山の車が走る結節網としての首都高でつながれています。

こうした「東京」のもつ独特の構造自体をヴェンダースはとても正確に認識しているようです。

「PERFECT DAYS」全体から感じる明確な構造的スタイルの正体は、監督自身がとらえた「東京」そのものの本質からきているのでしょう。

 

でも、極めてその構造全体を見事に捉えたヴェンダースの描く東京は、実際にそこに住んでいる、あるいはこの都市に馴染みのある人からみると、逆にリアリティが妙に薄められているようにも感じられるのではないでしょうか。

全くどこをとってもリアルな東京が写されているはずなのに、なぜか寓話的な光景に見えてきてしまう要因の一つが、この「ヴェンダースの構造をみる眼」によって生じているのではないかと考えています。

スカイツリー下の人情風景も下北沢のマニアック店の景色も、ずいぶんと「それらしい」のにどこか虚構めいて見えます。

ヴェンダースの視点はかなり東京を俯瞰的に構造としてとらえていますから、ミクロの情景は逆にある種の「距離」が置かれて描かれているのです。

それがこの映画に独特の寓話感を与えているように感じます。

 

平山は、トイレ掃除における丁寧な仕事ぶりから、とても几帳面で実直な性格の持ち主であるように、初めのうちは感じられます。

しかし、彼の行動をよくみていくと、時々、奇妙に矛盾した状況や場面が挿入されていることに気が付きます。

ほとんど布団くらいしかない部屋。

テレビはもちろんテーブルもありません。

勤務先から連絡用の携帯電話は支給されているようですが、個人としては通信手段をもっていないようです。

余計なつながりをもちたくないというこの男の性質が次第に明らかにされていきます。

 

しかし、平山はいわゆる「ミニマリスト」では全くないのです。

棚には夥しい文庫本とカセットテープ。

撮り溜めた写真のストックがブリキ製の箱に入れられて整然と大量に押入れの中に格納されています。

無駄を捨てて最小限の必需品で生きていくという「思想」を持ち合わせていないことがわかります。

そしてこの男は、実は何か豊かな「過去」をもっているのではないかとも想像させます。

そもそも毎朝口髭を整える役所広司という、ありていに豊饒な存在が、一般的にイメージされる老年トイレ清掃スタッフとかなりかけ離れているわけで、この映画は最初から主人公の謎めいた存在感自体を物語の縦糸として巧妙に仕込んでいるともいえます。

約2時間、地味で凡庸な内容のシナリオなのに、画面から目が離させなくなってしまうのはヴェンダースによるこの設定が強く効果を発揮しているからなのでしょう。

 


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平山はトイレ掃除自体が趣味的に好きというわけでもなさそうです。

仕事は丁寧すぎるほどですが、任されている以上のシフトを急遽こなさなくてはならない事態になったとき、普段は感情を抑制している平山なのに語気強くクレームを雇い主にぶちまけています。

彼にとってトイレ清掃は、日常を構成するとても重要な部分ではあっても、「生きがい」そのものではなさそうです。

他に同じようなスタイルで出来る業務であれば、それでもよかったという程度の位置付けなのでしょう。

ルーチン生活を崩さず、余計なコミュニケーションをとる必要なく、一人で黙々と遂行できる仕事がたまたまトイレ掃除だった、ということではないでしょうか。

 

浅草駅地下にある毎晩のように通っている居酒屋に入る際には、自転車を平気で駅の入り口近くの路上に停めています。

律儀に交通マナーを守る堅物というわけでもないようです。

現実の浅草ではこんなことをすると直ちに注意され、下手をすると自転車を撤去されます。

こういうディテールに、実は「ありそうなリアル」と「ありえないリアル」の境界を示しているような、この映画の本質が垣間見えてきます。

 

さて、次第に平山という男の「ありそうでありえない」複雑さが伝わってくると、いつこの人物の「過去」が描かれるのかと期待しはじめることになります。

しかし、「PERFECT DAYS」において、彼の回想シーンは全く描かれていません。

麻生祐未演じる妹の存在と彼女とのやり取りによって、どうやら平山という人物がかつてかなり富裕層の家族に属していたのであろうことが示唆されるだけです。

そして、父親と決定的に不和な関係にあることも明らかにされます。

 

アパートとトイレ掃除の往復が中心を占める現在のルーチン生活に、平山が幸福を感じていることは、彼の表情から明らかです。

しかし、どうしてこういう生活を幸福と感じられるようになったのか、その背景には、とてつもない悲劇の存在があるように感じられます。

そうしたこの主人公の複雑性が、最後に延々と続く平山のアップによって表出されます。

 

禍福は糾える縄の如し。

 

この古めかしいことわざが、役所広司の見事すぎる演技によって、一人の男の顔にそのまま現れてしまったかのようなラストシーンにひどく感動してしまいました。