「ヴェルクマイスター・ハーモニー」4K版|タル・ベーラ

 

タル・ベーラ(Tarr Béla 1955-)監督による「ヴェルクマイスター・ハーモニー」(Werckmeister harmóniák 2000)の4Kレストア版が各地のミニシアターで公開されています(2月24日〜シアター・イメージ・フォーラム 配給はビターズ・エンド)。

4K化により「黒」の純度が高まったことでこの映画が描く破滅への道程が美しく再現されています。

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観終わってから妙に空腹感を覚えていることに気がつきました。

美味しそうな料理が出てくるグルメ映画では全くありません。
むしろ映像的には食欲を減退させるシーンの方が多いでしょう。
なのになぜ空腹になってしまったのか。

それは「脳」が働きすぎる映画だったからなのではないかと想像しています。

身体を動かしていなくても脳が猛烈に仕事をするとかなりのエネルギーが消費されます。
146分間とそれなりの長尺であるにもかかわらず、わずか40カットにも満たないシーンで構成されたこの異様なモノクロ映画は、おそろしく鑑賞者の脳味噌に労働を強いる作品といえそうです。

 

設定が曖昧なのでややわかりにくいのですが物語自体はいたってシンプルです。

ある街に巨大なクジラの剥製を見世物とした興行の一団が巡行してきます。
興行に加わっている「プリンス」と呼ばれる謎の人物の扇動によって暴動が起こり、沈静化して終わります。
物語の大筋だけ示せばこれだけの映画です。

新聞や郵便物の配達を仕事としている青年ヤーノシュ(ラルス・ルドルフ)、ヤーノシュが「おじさん」と呼んで敬愛している老音楽家(ペーター・フィッツ)と、別居中のその妻(ハンナ・シグラ)。
この主要登場人物を軸に田舎町の住民たちが縦横に絡みながら映画は進行していきます。

現代なのか近過去なのか、時代設定が明確ではありません。
ハンガリー語が使われていますからハンガリーが舞台ではありそうですが場所が特定されているわけでもありません。
(なお主要3役はいずれもドイツ人ですから別人がハンガリー語の台詞をアフレコで被せています)

 


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閉店間際の居酒屋にヤーノシュがやって来るところから映画が始まります。
このシーンには、なぜタル・ベーラが極端な「長回し」を多用するのか、その答えが示唆されているように思えました。

ヤーノシュは太陽と地球、月の役を居酒屋の客たちにあてがい、恒星と惑星、衛星が連動する様をダンスで表現しようとします。
やや世間からズレた純粋性をもっているこの青年を街の人々が共通の子供として可愛がっているようにも見受けられる、この映画で最も幸福感に満ちた場面です。

しかし居酒屋の店主は途中でダンスを打ち切らせ閉店をあらためて宣告します。

ヤーノシュは店主に言い返します。
「まだ終わっていないのに」と。

タル・ベーラがなぜ長時間同じシーンを写し続けるのか。
それは「終わるまで撮る」からなのでしょう。

観客に場面のもつ意味や温度、湿度、響き、そうした内実をとことん味わせ考えさせるために必要な時間をこの監督ははっきり自覚しています。
ですからその必須時間が彼の中で「終わっていない」以上、1カットの途中で場面撮影を打ち切ることがないのです。
結果として、とことんこの監督に付き合ってしまうと観る側の脳は自然と酷使されることになります。

 

星々のダンスによってヤーノシュは「宇宙の調和」を居酒屋の客たちにしめそうとしていました。
これはおそらく彼が慕う老音楽家に影響された発想なのでしょう。

本作のタイトル「ヴェルクマイスター・ハーモニー」は主に鍵盤楽器で使用される調律法の一つヴェルクマイスター音律のことを指しています。

西洋音楽における基礎中の基礎である「音階」を最初に発見したのはピタゴラスです。
彼は人間が最も調和の美を感じる音の連なりを12音からなる音階として示しました。

しかしこのピタゴラス音律は1オクターヴ中に周波数としては微妙なズレを含んでいました。
例えばCの音と1オクターヴ高いCの音を合わせて奏でると、本来は同一の音なのでピタリと響きが合わさるはずですが、ピタゴラス音律では音程がずれているのでワンワンと音が波立ってしまいます。

人の声などを中心としていた時代はまだこれでも良かったのですが、器楽が発達し西洋音楽の和声が複雑化していくに従い、この音律は当然に使いにくいものになっていきました。

そこでこのズレを解消するためにピタゴラス音律に調整を加えるミーントーン(中全音律)などの様々な音律が考案されることになります。

アンドレアス・ヴェルクマイスター(Andreas Werckmeister 1645-1706)が考案した音律もその一つでした。
現在では「平均律」が一般的ですが、ヴェルクマイスター音律も古楽器演奏などでは使用されることがあリます。

 


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映画の中で老音楽家はヴェルクマイスターのことを批判しています。

ヴェルクマイスターによって人為的に矯正を受けた音律は、ピタゴラスが発見しプラトンが受け継いだ「宇宙の調和」としてのハーモニーに対する冒涜として語られているのです。

つまりこの老音楽家は「人為的なもの」あるいは自然を歪曲化するものを批判する思想の持ち主といえるのでしょう。

矯正された調和美(ヴェルクマイスター・ハーモニー)への嫌悪は、ひょっとするとかつてハンガリーが経験した共産主義のことを暗示しているのかもしれません。

 

老音楽家からみれば興行師が連れてきた巨大な剥製のクジラは取るに足らない半人造物です。
しかし世界の見方について純粋に好奇な眼をもっているヤーノシュには魅力的な存在として認識されています。
またその「巨大さ」は何かに対して不満を燻らせている群衆たちを引き寄せていきます。

一方、「プリンス」は、あらゆる既存のもの、そして未来に創造されるものの意味を否定します。
クジラの周りに集まっていた群衆は彼の扇動によって破壊衝動を爆発させ暴徒化しますが彼らが襲った場所は官庁や資産家の屋敷ではなく病院でした。

立場の強い者ではなく弱い者を攻撃するという群衆の救いようのない心理が冷徹に描かれているシーンです。

暴力と殺戮の現場に巻き込まれたヤーノシュは結局精神が破壊されてしまったようです。

物語は収容所内のヤーノシュを見舞った老音楽家がその帰り道、広場に打ち捨てられた巨大クジラを眺めるシーンで終わります。

 

予告編映像の中でタル・ベーラによる以下の言葉が引用されています。

「スクリーンに映し出される登場人物を愛してほしい。そしてー 彼らが破滅していったように、あなたたちも破滅してほしい。」

これはどういう意味なのでしょうか。

ヤーノシュは結局破滅したのでしょう。

老音楽家は生きながらえたようにみえますが、彼を支える「宇宙の調和」などという思想は全く意味のないことであることを彼は放置されたクジラを見つめることで十分に悟ってしまったようにもみえます。

この映画の中で唯一、勝利したように見えるハンナ・シグラ演じる老音楽家の妻は、人為だの自然だの調和だのといった思考とは全く別の世界に生きている女性です。

イカれた警察署長と懇ろになり夫を屋敷から追い出してしまったこの妻は、ある意味、簡単に暴徒化してしまうような愚かな男性たちに対するアンチテーゼとしての女性像を体現しているのかもしれません。
しかし彼女の家庭生活が幸福に続くとはとても想像することができないほどに「強すぎる」存在でもあります。

純粋性も自然調和美も、逆に矯正された調和美も、最後のよりどころである家庭すらも破壊された世界。

これこそ「ヴェルクマイスター・ハーモニー」が描く世界であり、それを知ってしまい映画の中に没頭してしまった観客は確かに「破滅」するしかないようにも思えます。

鑑賞後、甘いチョコレートを脳が欲するほどに、あらゆる宗教的、哲学的、社会的な希望を丁重に幾重にも葬り去ってくれる大変な名作です。