オタール・イオセリアーニの「音楽」

 

ジョージア(グルジア)出身の映画監督、オタール・イオセリアーニ(Otar Iosseliani 1934-)の作品が、有楽町のヒューマントラストシネマ他、各地のミニシアターでまとめて公開されています(配給はビターズ・エンド)。

彼が、諸々と制約を受けていたソ連支配時代の祖国を離れ、フランスに移ってから撮られた映画を中心に何本か鑑賞してみました。

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イオセリアーニの映画には、ほとんど、他所で録音された音楽が被せられません。
「映画音楽」が基本的に使われていないのです。
多くの作品で、監督と同郷人とみられるニコラ・ズラビシヴィリが音楽を担当していますが、彼の軽妙なピアノ音楽は、映画の初めと終わりのクレジットタイトル部分におおむね限定されていて、本編で使用されることはほとんどありません。

イオセリアーニは、2011年の来日時、映画美学校で開催されたマスタークラスにおいて、聴講者たちに「音楽に対しては警戒し、不信感を持ってください。」と語っています。
さらに「音楽は映画にとって松葉杖のようなもの、一人歩きできない映画に対して松葉杖をつけるようなものなのです。」と、音楽まみれになっているハリウッド映画を痛烈に皮肉ってもいます。
(「オタール・イオセリアーニ映画祭」パンフレットP.64)

ではこの人が音楽に関心がないのかといえば、事実は全くその逆です。

彼は映画監督を目指す前、トビリシ国立音楽院で作曲科やピアノ科の学位をとったプロの音楽家でもあるのです。
イオセリアーニの作品では、BGM的に音楽が使われることはほとんどありませんが、登場人物たち自身によって奏でられる音楽がしばしば登場します。
突然路上で奏されるバッハの無伴奏チェロ組曲
ヴァイオリンを無理やり練習させられている少年がたどたどしく弾く曲もバッハの無伴奏パルティータ。
「皆さま、ごきげんよう」(Chant d'hiver, 2015)にホームレスの「侯爵」役で登場していた、亡くなる前年のピエール・エテックスが奏でるアコーディオン音楽、などなど。

 


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とりわけ印象的だったのは、「素敵な歌と舟はゆく」(Adieu, plancher des vaches!, 1999)で、映画の冒頭、実業家の女主人がゲストたちを前に豪邸の中で歌う、シューベルトです。
美しき水車小屋の娘」の第1曲「さすらい」が使われていました。
さすらったあと、失恋の絶望で閉じられるこの歌曲集は、普通、男声で歌われますが、イオセリアーニはあえて強烈な性格をもったこの女性に歌わせています。
彼女の夫(イオセリアーニ自身が演じています)が、映画の最後、どうなったのか、まるで鏡のように妻が物語の最初で暗示的に歌っているようです。

 


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要所要所、映画の中で句読点が打たれるがごとく、あるいは、錯綜した事象をまるめこむように、登場人物たちがパフォーマンスしていく楽曲の数々。
そうしたイオセリアーニの手法がもっとも効果をあげているのは、なんといっても、ジョージアポリフォニーでしょう。
飲んだくれていた男たちが突然、ハモりだしたときの、なんともいえない心地よい歌声による調和の美しさに魅了されます。
とはいえ、映画の中で実体としての「音楽」は必要最小限度にとどめられています。

「松葉杖としての音楽」は要らない。

イオセリアーニは自らの言葉をそのまま映画で実証していることになるのですが、なぜほとんど音楽なしで2時間近い作品群がそれぞれに「一人歩き」できているのでしょうか。
それは、イオセリアーニの映像自体が、「音楽そのもの」だから。
そんな風に感じています。
「音楽」に加える音楽は不要、ということかもしれません。

「カットバックを使ってはいけない」とも主張するイオセリアーニの作品からは、細かいカット分割によって生じさせることができるハリウッド的にご機嫌なテンポ感がほとんど感じられません。
ワンショットにとても長い時間があてられています。
ところが、では、各シーンがのっぺりと弛緩しているかといえば、実際の映像から観てとれる印象は、むしろその反対なのです。
滑らかに、甘くも苦くもあるようなメロディーが快適なリズムで紡がれていくように、登場人物たちや背景の事物が移ろっていきます。

「月曜日に乾杯!」(Lundi matin, 2002)の中で描かれている、うんざりするような日常をとらえた場面でも、映像は独特のアーティキュレーションが常に意識されていて、全く飽きさせられることがありません。
くるくると入退場を画面の中で繰り返す登場人物たちの動きそのものが「音楽」のように繋がれていく不思議。
物語の時空をあえて跳躍させていくような「群盗、第七章」(Brigands, chapitre VII,1996)では、筋書き自体、どうなっているのか途中でわけがわからなくなるのですが、映像はそんなこちらの困惑を横目に、ごく自然に「音楽的」に流れていくので、もう、ストーリーとか、関係なくなってしまいます。
それくらい心地よい、のです。

特に、リヴェットをはじめとするフランスの映画人たちから「ウィリー」と呼ばれて愛されていた名カメラマン、ウィリアム・ルプシャンスキー(William Lubtchansky 1937-2010)が撮影を担当した作品では、驚くほど滑らかなカメラワークに加えて、映像に独特のコクが仕込まれていることもあって、ますます筋書きなどどうでもよくなるくらいの美観がスクリーンに現れています。

「皆さま、ごきげんよう」の中で、「ベートーヴェンの第九が嫌い」というフレーズが出てきます。
ベートーヴェンの音楽には『目標』があるが、シューベルトには『目標』がない」と語ったのは、ピアニストのヴァレリー・アファナシエフですが、「目標」に向かって収斂していくこととは正反対ともいえるイオセリアーニの映画を観ていると、永遠に終わりなく延々とひたすら歌が紡がれていくようなシューベルト晩期のソナタを連想させられたりもしました。