■粛清裁判 (2018) 監督:セルゲイ・ロズニツァ
終始モノクロで、2時間以上かかります。
職業俳優は登場せず、ナレーションも一切ありません。
でも、映像と音響の圧倒的な存在感に不思議と引き込まれてしまう。
ドキュメンタリー映画の体裁を取りながら、虚実が幾重にも織り込まれた、複雑にして剛直ともいえる作品。
セルゲイ・ロズニツァの《群集三部作》が公開されています。
「国葬」、「粛清裁判」、「アウステルリッツ」の三作。
ベラルーシ出身の、ドキュメンタリー映画を中心に高い評価を得ている監督。
まったく知らない人でしたが、噛みごたえがありそうな作品と見込んで観賞に至りました。
最初に「粛清裁判」を観賞。
ソ連共産党に対する破壊分子としてクーデターの罪に問われたテクノクラートたちが裁かれていく映像が写し出されていきます。
被告たちを弾劾する禿頭の検事が、「全員に銃殺刑を求刑する」と大見得をきるシーンがあります。
詰めかけた傍聴群集から大喝采がわき起こる印象的な場面。
このシーンを見てすぐに連想したのはヒトラー演説。
検事が話す言葉はロシア語ですが、その抑揚のつけ方、仕草、文節の切り方はそのままナチス総統のそれに重なります。
しかし、この映像が記録されたのは1930年。
まだ第二次世界大戦も始まっておらず、「ネップ」など世界史用語となった旧ソ連時代の言葉が被告たちによって話されている時代。
群集を熱狂させる演説の作法はヒトラー以前から一種の「型」が既にあったのかもしれません。
それはともかく、まるで戦後映像と見紛うほどに1930年の映像としては生々しく、映像復刻そのものにもこだわっている姿勢が読み取れます。
加えてノイジーで鮮烈なサウンドが、本来なら古色蒼然とした戦前のアーカイヴ映像なのに、奇妙な迫真性を与えていて画面から目をそらすことができません。
元々の映像はスターリンがでっち上げたといわれる「産業党裁判」の様子を記録したもの。
「産業党」などという組織自体が存在しなかったのに、技術畑の知識人たちを徒党を組んだ反革命分子として糾弾。
外国からの干渉や資本主義・帝国主義の復権を企んだとして群集の前で血祭りにあげることで、見せしめ効果を狙った計画的な裁判です。
スコープがきっちりあった裁判官等のアップ映像などからわかるように、あきらかに何らかの演出がほどこされた映像作品であることが序盤から伝わってきます。
驚くのは次々と素直に罪を認めて悔いあらめたていく被告たち。
彼らもこの計画の共犯者であることが、その落ち着き払った弁明からすぐ判明します。
時にむせこんだり、「声が小さい」と裁判官から指摘されてたちすくむ様子など、演技とすればかなり手の込んだ演出が施されています。
果たしてこれは本当に演技なのか。
虚構だとしても、大群衆の前で死刑や全財産没収を言い渡される被告たちの本心はどこにあったのか。
さらに虚実を曖昧にしている要素があります。
それは傍聴に押しかけた群集たちの表情。
中にはエイゼンシュタイン映画に出てきそうな、あからさまに訳知り顔でポーズをとっているような老人なども見かけるのですが、大多数は「プロレタリアの敵」がどう裁かれるのか、興味津々で素朴に詰めかけている人々のようにも見えます。
この似非ドキュメンタリー映像をとるために唐突に向けられたカメラ照明の光を不快そうに遮る彼らの仕草まで周到に収められています。
ときおり、「ボルシェビキ万歳」などと叫んで行進する群集の映像が挿入されます。
これは元の映像に加えてロズニツァが編集して加えたもの。
この映画の本当の主役は裁判官や被告たちではなく、まさに《群集》であることを露骨に提示しています。
でも主役であるはずの群集は、彼らを裁判映像を観る立場として捉え直したとき、実は一番騙されていた被害者ということになります。
加害者と被害者が重層的にぐるぐると回転する虚実ないまぜの世界。
淡々とストレートに、ソース映像のねじ曲がった力強さを独自の映画として再構築したロズニツァの手腕。
メタ・ドキュメンタリーの世界を堪能することができました。
なおこの映画の邦題は「粛清裁判」ですが、スターリンによる本当の大粛清が始まるのはこの数年後。
大粛清はほとんど裁判の手続すら踏まれなかったわけですから、やや違和感があります。
邦題は、「裁判」、だけで良かったように思います。