梶原緋佐子「暮れゆく停留所」|京都市美術館2024夏コレより

 

2024夏期 コレクションルーム 特集「女性が描く女性たち」

■2024年7月19日〜9月27日
京都市京セラ美術館

 

京都市美術館は通例、年に4回、春夏秋冬とコレクション展を開催してきましたが、今年度は夏期と冬期(2025年1月10日〜2月24日の予定)、2回のみの実施となっています。
少し寂しくはありますが、他の企画展との調整によるものなのでしょう。

今回の夏コレクションでは京都画壇で活躍した女性画家たちの特集が組み込まれています。
お馴染みの上村松園から、三谷十糸子、丹羽阿樹子、秋野不矩といった画家の名品が数多く紹介されていました。

kyotocity-kyocera.museum

 

梶原緋佐子(1896-1988)の初期を代表する「暮れゆく停留所」が写真撮影OKの作品として展示されています。
1918(大正7)年、記念すべき第1回国画創作協会展に出展され、選外とはなったものの佳作の評価を得た絵画です。
画家がまだ22歳頃に描かれた作品ですが、今や京都市美を代表する人気作品の一つといっても良いのではないでしょうか。

この絵を解説した古い展覧会図録(京都国立近代美術館「京都の日本画1910-1930」展)を見ると、タイトルの「停留所」は"Station"と英訳されていました。
一方、京都市美のキャプションや最近2021年に開催された「あやしい絵」展の図録では"Tram-stop"と訳されています。
「停留所」を素直に訳せば"tram-stop"です。
つまりこれは「路面電車の停留所」を意味しますから、一見、当時走っていた京都市電の停留所における一場面が描かれているようにも思えます。

しかし、梶原緋佐子がこの絵を描くきっかけとなったある情景は、実は京都市電ではなく「京阪電気鉄道」の駅で見られたものです。
中書島駅でみかけた人物の姿が強く印象に残り、その光景をベースに「暮れゆく停留所」として仕上げたのです。
写されているのは雇仲居(やとな)と呼ばれる、固定の店や宿ではなく行楽地をわたり歩いて料亭などで接待する女性とされています(『近代京都画壇史』P.148)。

 

梶原緋佐子「暮れゆく停留所」(京都市美術館蔵)

 

駅のベンチに腰掛ける一人の若い女性が描かれています。
黒地に縦縞の地味な衣装は当時の雇仲居にみられる一般的なスタイルなのでしょうか。
画面右上の画中画はどうやら桜並木を描いたポスターのようです。
「暮れゆく」とあるわけですから、ひょっとすると花見客相手の接待仕事を終えて帰宅のために電車を待っているのかもしれません。
ほつれた髪をそのままに、日傘を持った手に頭をのせてうつむいている女性の表情からは気の毒なくらいの疲労感が漂ってきます。
帰宅してからも待っているのであろう雑事にうんざりしているのでしょうか。
電車がくるまでの束の間、誰にどう見られようが、とにかくボーっとしていたい、そんな女性の内心までもが伝わってくるようです。
写実性が重視されてはいますけれど、全体としてこの絵からはどこか「物語」を読み取りたくなるような魅力を感じます。
描くきっかけは京阪の中書島駅で見た光景にあったのでしょう。
しかしこの「暮れゆく停留所」はそうした具体的な情景を離れ、一人の疲れた女の姿から様々な解釈を生み出す余地を許容しているようにも思えてきます。
単に仕事に疲れているのか。
あるいは何か別の心配事があるのか。
ひょっとすると女が履く下駄の先に小さい虫がいて、それを無心に眺めているだけなのかもしれません。
観るたびに新しい物語を感じさせてくれる作品です。

 

 

さて、梶原緋佐子が生まれ育った場所は、今は骨董品屋が立ち並んでいることでも有名な知恩院門前町です。
父の梶原伊三郎は造り酒屋を営んでいて、経済的には裕福な家庭だったようです。
ここは現在、東山区になっていますが、1929(昭和4)年に分区されるまでは下京区だったところです。
彼女は祇園も近い下京の華やかなエリアで様々な市井の女性たちを「丸ごと視る」眼を幼い頃から自然と研ぎ澄ませていったのではないでしょうか。
大正期に描いた女性像からは、表面的なキャラクター性を通り越した内面性が滲みでているように感じられます。

彼女を絵の世界に導いた人物が日本画家、千種掃雲(1873-1944)です。
梶原緋佐子は京都府立第二高等女学校(現朱雀高)に進みますが、掃雲はここに図画教師として当時勤務していました。
高校美術教師掃雲は教え子の緋佐子に「綺麗に着飾った女が、ニュッと立ってるなんて、そんなもの何もならない。ほんまに切ったら血が出るような、そういう女を描くんやったらお前に荷担してやる」(「あやしい絵展」図録P.138)と、覚悟を促すような言葉を贈り画家を志す彼女の背中を押しました。
その画才を鋭く見抜いていたのでしょう。
1914(大正3)年、女学校を卒業した緋佐子は掃雲の仲介で菊池契月(1879-1955)の画塾に入門。
以後、菊池塾を代表する画家として活躍していくことになります。

「切ったら血が出るような女をかけ」という掃雲の言葉は、ある意味、そう語った本人よりも梶原緋佐子によって見事に絵画として実現されることになります。
洋画の浅井忠にも学んだ千種掃雲は明治から大正初にかけてモダンな風俗画を手がけていて、中には「つれづれの日」といった女性の内面まで感じさせる作品もあります。
しかし梶原緋佐子が描くほどの「生々しさ」は掃雲の人物画からは感じとれないようにも思えます。
梶原緋佐子は、恩師の言葉をそのまま実現し、その師の表現力まで超えてしまった画家といえるかもしれません。

 

梶原緋佐子「曲芸師の女」(京都国立近代美術館蔵) 現在展示されてはいません

 

梶原緋佐子の作品は京都市美のお向かい、京都国立近代美術館のコレクション展などでも時々展示されてきました。
「曲芸師の女」は「暮れゆく停留所」の約4年後、1922(大正11)年に描かれた作品。
中国風の格好をしているようにも見える少女が「皿回し」に使う道具をもって座っています。
芸を終えて休憩でもしているのでしょうか。
やや視線を上げている曲芸師の女に「暮れゆく停留所」の女性が漂わせている疲労の色はあまり見えていませんけれど、かといって楽しく休憩時間を過ごしているという雰囲気でもありません。
口を半開きのようにしているその姿は、放心しているのか単に休んでいるのか、女性がその内面に抱えた掴みどころのない虚無感がとらえられているようです。
緋佐子の実家は八坂神社のすぐ近所でもあります。
ひょっとするとこの社で毎日のように行われていた見世物小屋興行の裏場面を描いたものなのかもしれません。

一方、同じ年に制作された「老妓」は、おそらく祇園町あたりの老いた芸妓の横顔が描かれています。
「曲芸師の女」とは対照的に、この作品では描かれた対象がじっくり醸成してきた内面世界がそのまま外側に現れてしまったかのようです。
今ではあまり見かけなくなりましたけれど、京都市内ではこういう雰囲気をもった老婦人がたくさん存在していたような気がします。
この作品は加齢の悲哀というような通俗的モチーフを描いているのではなく、相手の人間性を一瞬で見抜いてしまう老妓が備えた底知れない眼力のようなものを、画家自身の鋭い眼と技巧が絵画のなかに写し取ってしまった一枚ではないかと思います。

大正期、「切ったら血が出るような女」を老若関係なく描いた梶原緋佐子は、昭和に入ると画風を変え、新古典的なすっきりとした様式美を尊ぶようになります。
おそらく時代が求めた画風にシフトしたのでしょう。
ただ、現代の眼はむしろ大正期の緋佐子がもっていた生々しさを求めているのかもしれません。

 

梶原緋佐子「老妓」(京都国立近代美術館蔵)  現在展示されてはいません