没後50年 生誕120年
奥村厚一 光の風景画家 展
■2024年7月19日〜9月8日
■京都市京セラ美術館
日本画家、奥村厚一(おくむら こういち 1904-1974)の大規模なレトロスペクティヴです。
会期末が近かったためか、混雑とまではいえませんが、平日にも関わらず予想以上にお客さんが入っていました。
京都市美術館は画家が亡くなってから2年後の1976年に遺作展を開催したことがあるのだそうです。
約半世紀ぶりとなる今回はこの美術館が所蔵している、奥村が描いた数多くのスケッチをたっぷり紹介し、展覧会に厚みをもたせていました。
しかし、ここに出展されている彼の本格的な作品の多くは、京都市美や他の大規模なミュージアムのコレクション品ではありません。
ほとんどが個人やギャラリー、企業が所有しているものです。
中でも圧倒的な規模で作品を提供している企業が「志賀高原ビール」で有名な長野県にある酒類製造販売会社「玉村本店」です。
奥村厚一は23歳のとき、志賀高原にある「熊の湯ホテル」に初めて宿泊して以来、ここを拠点に信州の山々を数多く描いています。
エメラルドグリーンに色づく源泉で有名な熊の湯ホテルは、湯田中・渋温泉郷の近くでもあります。
玉村本店は渋温泉から上林温泉に向かう途中にあり、歴代の当主が美術好きだったらしく、志賀高原を訪れた多くの画家と交流をもっていました。
自前のギャラリーでそのコレクションを公開していることでも知られています。
奥村厚一もこの老舗醸造元当主のお気に入り画家の一人だったのでしょう。
非常に充実した作品群が玉村本店から提供されていて驚きました。
ただ私は、正直にいうと、この画家のあまり熱心な鑑賞者ではありませんでした。
なんとなく微温的な、毒にも薬にもならない風景画家の一人というふうにしかみていなかったといえます。
しかしこの展覧会で志賀高原に秘蔵されていた多くの作品に接し、認識を改める必要があるのではないかと感じています。
展覧会のキービジュアルにも採用されている「浄晨」(東京藝術大学蔵)は1946(昭和21)年の第2回日展で特選となった奥村厚一の初期を代表する作品です。
非常に洗練された色彩構成と造形表現によって雪景色の林が描かれています。
でも、なんとなく、東山魁夷的というか、いかにも人の良さそうなだけの世界観につながる気配が感じられてしまうからなのでしょう。
どうも代表作「浄晨」にはそれほど惹かれるところがないのです。
会期終盤までこの展覧会の鑑賞を迷っていたのは「浄晨」を全面的に配したアートワークにあまり魅力を感じていなかったからかもしれません。
奥村厚一は1904(明治37)年7月1日、大徳寺のすぐ北東に位置する京都市北区紫竹西高縄町(当時は愛宕郡大宮村)に生まれています。
父親は大宮村役場に勤めていたそうです。
先述した熊の湯ホテルに投宿した翌年、1928(昭和3)年に京都市立絵画専門学校研究科に進学し同時に西村五雲(1877-1938)の画塾に入門しています。
京都画壇の本流で腕を磨いた人といえるでしょう。
興味深いのは、師匠である西村五雲と弟子奥村厚一は、各々が得意とした題材がとても異なっていたという点です。
西村五雲は特に動物画の名手として知られた巨匠でした。
ところが奥村は人物はおろか、ほとんど動物を描いていません。
初期の作品でも主題として選ばれているのは人や動物のいない景色ばかりです。
ただ、その繊細な写実力はやはり西村五雲画塾で身につけたものなのかもしれません。
1936(昭和11)年に文展鑑査展へ出品された「雪の音」などをみると、伝統的なモチーフを扱いながらも独特のデリケートな詩情が作品から立ち上ってきます。
日展特選の栄誉を受けた「浄晨」の翌年、1947(昭和22)年、奥村は第3回日展に招待作として「清光」を出品します。
会場内の解説にもありましたが、この「清光」には「浄晨」とは明らかに違うスタイルがみてとれます。
竹林と月という典型的な日本画のモチーフを描いていながら、「浄晨」でみせていた予定調和的表現に代わり、対象物のエキスそのものをとらえ、かつ、それを独自のスタイルに落とし込もうとする意図が伝わってきます。
画風の変化はそのまま画家としての生き方をも変えてしまったのでしょう。
奥村は1948(昭和23)年、「創造美術協会」結成に参加し、順調とみえた官展作家の道から離脱することになります。
他方で、翌年からは京都市立絵画専門学校の助教授、1950(昭和25)年には教授に就任する等、官展を離れたといっても、片足はしっかり実務的にアカデミックな場に置いていたことも、この人の画業をみていく上で重要な要素といえるかもしれません。
創造美術協会以降における奥村厚一の作品からは、安直に伝統を引きずる日本画の微温的通俗性が排される一方、逆に、例えばパンリアル美術協会の画家たちが主張したような革新的型破りさも感じられません。
伝統的手法を用いながら、対象のもつ形を「空気感」まで含めて丸ごと心象風景としてリアルに再現したところに奥村芸術の素晴らしさがあるように感じられます。
展覧会のキャッチコピーに「モネのように光に魅せられた日本画家がいた」とあります。
ちょっと違うような気がします。
クロード・モネは光によって移ろう色彩の変化、眼に映り込むその多様な美しさを追求した画家です。
朝、昼、夕方、晴天曇天の違い等によって同じ景物が描かれているのにモネの色彩表現はそれぞれに全く違う様相を呈しています。
他方、奥村厚一が描いた景物はモネのようにその色彩について千変万化していくような対象としてはとらえられていません。
海は青く、木々は緑、山々は白と黒を基調として盤石です。
にも関わらず、たしかに「光」が常に感じられるのは、モネのように網膜にとらえられた色彩をその時々で画面上に変換するのではなく、対象の存在感そのものを心象を通して描いているからなのでしょう。
モネというより、むしろクールベに近いようにも感じます。
年譜を眺めているとこの人はほとんど毎年のように旅をしていたことがわかります。
やはり信州がお気に入りだったようで、晩年まで飽きることなく訪れていました。
今回の展示では、渋温泉の名宿「金具屋」で新発見されたという作品、「妙義山」も含まれています。
投宿の折に宿に贈った絵画などがまだどこかに隠れているかもしれません。
この企画を機に奥村作品の再評価が進むことを願っています。
奥村厚一は満70歳を迎える直前、1974(昭和49)年6月25日、肝臓疾患のため京大付属病院で亡くなりました。
病室でも見舞客がもってきた花を丹念にスケッチしていたそうです。
なおこの展覧会では、京都府が所蔵する一点の作品を除き全て写真撮影OKとなっています。