ドミトリー・ショスタコーヴィチ: 交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」
BBCフィルハーモニック
指揮: ヨン・ストゥールゴールズ
(Chandos CHSA5278 2020年リリース SACDハイブリッド)
もはやこの曲をショスタコーヴィチによる体制迎合の産物として軽んじる人は少ないと思います。
もちろん作曲者自身によってつけられたタイトルの通り、「血の日曜日」事件を題材にした標題音楽に間違いはないのですが、それよりも、この作品が持つ純粋に器楽的な面白さが、特に90年代に入ってからリリースされたレコーディングによって明らかにされてきたように思います。
ヨン・ストゥールゴールズ(John Storgards)は1963年ヘルシンキ生まれ。
主に北欧圏で活躍してきた人で、シベリウスやニールセンの交響曲はもとより、サーリアホ等、現代作品の初演も手がける俊英として知られています。
現在の役職はカナダ・オタワの国立芸術センター管弦楽団とBBCフィルハーモニックの首席客演指揮者とやや地味ですが、この録音を聴く限り、かなりの実力を持った指揮者であることが確認できると思います。
第1楽章は「宮殿前広場」と名付けられ、やがて惨劇が起きるペテルブルク宮殿前の情景が描かれているとされる音楽。
確かにその通りひんやりした空気と不穏さが描かれていますが、器楽的にみると非常にユニークな構造を持っています。
終始弱音の弦楽器が奏でていく持続音。
それに重なっていくティンパニの音型。
これが延々と続く中、管楽器による革命歌メロディが漂うように明滅します。
一段落するとまたこの繰り返し。
これはフィナーレを永遠にむかえることがない救いようのない「ボレロ」ではないでしょうか。
第7交響曲第1楽章のネガとも聴こえます。
ストゥールゴールズは、この、演奏にかなりのストレスがかかるであろう冒頭部分を徹底した弦群の統制によって仕上げていて、その響きの透明感が素晴らしい効果をあげています。
第2楽章では惨劇そのものの様子がショスタコーヴィチの容赦ないスコアによって描かれているのですが、ここでも指揮者のスタンスはストーリー性よりも純粋に音響の構築に細心の注意が払われていると感じます。
耳を聾するような打楽器群の蹂躙音楽が落ち着いた足取りで響きの骨格を失うことなく姿を現します。
派手に演出するよりも余程悲惨に聴こえてるくるから不思議です。
あくまでも器楽曲としての素晴らしさを再現することに心を砕いているような指揮なのですが、一方で、この作品が持つ劇性を疎かにしてもいません。
第3楽章における静と動のあざやかなコントラスト。
遅めのテンポでじっくり響きのグラデーションをつけつつ丹念に作曲者による引用音楽を紡いでいきます。
第4楽章でもその確かな足取りは変わらず器楽的な美観を損ねない指揮ぶり。
しかし、それぞれの旋律が持つ推進力、熱量はしっかり描き出しているので鈍重さはありません。
このディスクのフィナーレでは、チュブラー・ベルに替えて教会用の鐘が使用されています。
BBCフィルがロイヤル・リヴァプール・フィルから借り受けたものです。
これはストゥールゴールズの指定によるそうです。
ライナーノートによれば、1959年、ムラヴィンスキーがレニングラードフィルと録音したときにも教会用の鐘が用いられているのだそうです。
ムラヴィンスキーの演奏は作曲者存命中に録音されたものになりますから、おそらくこの措置はショスタコーヴィチが承認していたのではないかとこの解説書では推定しています。
その鐘による効果は絶大です。
指揮者は最後、残響をミュートせずそのまま解放。
チュブラー・ベルよりもこの楽章の持つ「警鐘」のタイトルそのままのような余韻が残ります。
かつてジェームズ・デプリーストが都響とこの曲をサントリーホールで演奏した時、指揮者は両手を広げたままベルの音を解放。
その姿が突然記憶から蘇ってきました。
長らく「1905年」はデプリートがヘルシンキ・フィルと録音したディスクを愛聴してきましたが、SACDによる音響の威力もあいまって、今後は、このストゥールゴールズ盤を取り出す機会が増えそうです。
2019年メディア・シティUKというところでのセッション。
優秀録音だと思います。
(ただし、ダイナミックレンジがとても広いのでボリューム設定には注意が必要です)
Shostakovich, D.: Symphony No. 10 / Festive Overture (Helsinki Philharmonic, Depreist)
- 発売日: 1990/01/01
- メディア: MP3 ダウンロード