新収蔵記念:岸田劉生と森村・松方コレクション
■2022年1月29日〜3月6日
■京都国立近代美術館
昨年、2021年3月に京近美が一括収蔵したという岸田劉生作品のお披露目展です。
全て匿名の個人コレクター一人が所蔵していた作品で構成されています。
初期から晩年作まで42点におよび、内29点が購入、13点が寄贈となっています。
新聞報道等によれば総額約12億円のお買い物です。
各作品単位の価格は下記独立行政法人国立美術館のサイトで確認できます。
他の3国立美術館と比べ突出した購入金額で、特別な予算措置がなされているそうです。
その中で最も高額で買い取られた作品が「舞妓図(舞妓里代之像)」(1926・大正15)。
2億円です。
生々しい話題はこのあたりにするとして、でも、その「舞妓図」、実際とても興味深く鑑賞できた作品でした。
公開は2011年、大阪市立美術館での生誕120年記念展以来となるようです。
実物を観るのは初めてです。
縦27、横21.7センチとかなり小さな作品。
画面いっぱいに描かれた肖像は、一般的にイメージされる舞妓像とはかけ離れた一種異様な存在感を漂わせ、しばらく凝視せざるを得なくなるような迫力をもっています。
舞妓は画題になりやすいモチーフで、実際、日本画では山ほど描かれています。
舞妓という存在が持っている様式性をさらに際立たせる方向で描かれることが多く、「美しさ」という点での代表例は土田麦僊「舞妓林泉」あたりかと思われます。
他方「妖しさ」の面を強調した代表格が岡本神草で、「口紅」や「拳を打てる三人の舞妓の習作」が知られています。
しかし、例外的に、舞妓についてその形式美・様式性の追求とは真逆の、まるで「実存」としてあらわそうとしたかのように描いている画家もいます。
例えば速水御舟です。
彼の「京の舞妓」(東博蔵 1920・大正9)は本来美しく輝くはずの白い舞妓の顔に青黒い陰影がまとわりつき、化粧に隠された女性の内奥がかえってグロテスクなまでにえぐり取られているような印象を受ける異色作です。
岸田劉生の「舞妓図」には、どこかその速水御舟作と通底した、徹底的に対象の内実にまで迫ろうという絵筆の凄みが感じられます。
偶然、同じ大正後期に描かれた二人の舞妓像は、日本画と洋画、ジャンルは違うものの、不思議な共通点があるように思えます。
「舞妓図」は、2年半暮らした京都から、岸田劉生が鎌倉に去る直前に描かれた作品です。
本来は特に贔屓にしていた女性を劉生はモデルにしたかったようですが、置屋の女将が反対し、別の人物を描くことになったのだそうです。
反対した理由は、ある別の画家が舞妓と心中沙汰をおこした事件にあるようです。
しかし、世間がイメージする舞妓像とはかけ離れた、実存の塊のような劉生による画像をみると、置屋の女将はなんとなく画家の「対象を射抜く眼」を察していたのではないかと推測したくなってもきます。
ところで、贔屓の舞妓をもつほど祇園での茶屋遊びに没頭した岸田劉生には、連れだって遊んでいた画家がいました。
それが岡崎桃乞(とうこつ)、本名、義郎(1902-1972)です。
劉生晩年期の非常に有名な肖像画、「岡崎義郎氏之肖像」のモデルになっている当人です。
気障に煙草を構えたその肖像は、画家というよりダンディなホテル経営者のようにもみえます。
実際は岐阜の資産家に連なる人で、画業というより伝来の財産で十分遊んで暮らせた身分だったようです。
岸田麗子が著した『父 岸田劉生』の中では、桃乞が例の肖像画を気に入らず、受け取りを拒否したため、あてにしていた製作費を劉生がもらい損ねたエピソードが語られています。
桃乞は岸田劉生唯一の弟子ともいわれますが、画術の面は別にして、実際は資金面でのフォローも兼ねた遊び友達のような関係だったのでしょう。
劉生が鎌倉に去った後、京都に移住した岡崎桃乞。
彼は亡くなるまで京都に住み続けました。
住んでいた若王子の家は、法隆寺の木材を一部使って建てられたというユニークな住宅。
桃乞の前は和辻哲郎が住み、桃乞逝去後は梅原猛の居宅になっていたことでも有名です。
京近美4階のコレクション展では岸田劉生展と連動して、彼にゆかりのある芸術家の作品が展示されています。
岡崎桃乞の作品も含まれていました。
昭和20年前後、すでに劉生が没してから15年以上経ってから描かれた油彩4枚。
いずれも一見、写実性が高いように見えるのですが、どの作品も不思議と対象の内面性が、ちょっとひねくれた桃乞のフィルターを経て、じんわりと滲み出てくるような存在感をもっていて、確かに劉生の影響が窺える作風ともいえます。
戦後はほとんど画壇と関係を持たず、奇人画家と称された桃乞の「眼」を感じられる作品だと思います。
京都時代、岸田劉生が住んだ場所は南禅寺草川町41番地。
地番変更がなされていなければ、おそらく現在高級宿「ふふ京都」が建っているあたりかと思われます。
近所には無鄰菴、疏水、南禅寺門前の湯豆腐屋やブルーボトルコーヒー。
ほとんど生活感がない現状の街並み。
劉生が暮らした大正末期もこのあたりは京都市内中心部とはかなり違う雰囲気だったのではないでしょうか。
疏水を隔てた対岸に動物園があります。
ライオンの咆哮を寝覚めに聞いて驚いたことを劉生は日記に書いています。
関東大震災の難を逃れ、1923(大正12)年、京都に移住してきた岸田一家。
しかし、もともとこの街に長く住むつもりはなかったようです。
生活感が乏しい南禅寺門前エリアがちょうど良かったのかもしれません。
劉生も足を運んだという「瓢亭」が今も佇んでいます。