蘆花浅水荘 山元春挙と上村松園 最後の会話

 

琵琶湖畔にある山元春挙(1872-1933)の別荘、蘆花浅水荘(ろかせんすいそう)を見学してみました。

普段は予約制をとっていますが、現在、滋賀県美で開催されている「生誕150年 山元春挙」展と連動するかたちで、土日のみ、事前予約なしで見学を受け付けています(2022年6月19日まで)。
京阪瓦ケ浜駅から徒歩4,5分の距離。
アクセスは案外簡単です。

 

www.shigamuseum.jp

 

1921(大正10)年に完成しています。
実質的な着工から7年もの歳月が費やされました。
今年、建物の主人が生誕150年をむかえていますが、蘆花浅水荘自体、昨年100歳を寿いだということになります。
天井や柱、窓ガラスや主な調度品に至るまで、ほとんど100年前のまま美しく保存されています。

国の重要文化財です。
指定は1994年ですから、大正期の近代和風建築としては結構早い時期にその価値が認められたといえそうです。
北山杉などの銘木を惜しみなく使い、細部にまで機知を凝らした意匠が施されています。

近代建築とはいえ、当然に鉄筋でもコンクリートでもない木造数寄屋造。
メンテナンスだけでも大変な手間とコストがかかっていることが想像されます。
建物だけでなく、琵琶湖に向かって広がる庭園も見事に整えられています。

春挙がここで暮らした当時、琵琶湖は庭のすぐ近くまで迫っていました。
実際、「船着場」の遺構を見ることができます。
現在では、庭園と湖の間は埋め立てられ、県道102号(大津湖岸線)を車がひっきりなしに走っていて、往時の雰囲気とは違ってしまっていますが、琵琶湖の風を感じられる開放的な明るさが今もこの別荘を特徴づけています。

 

蘆花浅水荘 庭園の船着場跡

 

本館の2階には大きく天井の高いアトリエが設けられ、あの「春挙ブルー」を生み出した回転式顔料キャビネットなどがほぼ当時のまま置かれていて、別荘というより画家としての本拠地といった趣が感じられます。
50歳代を迎え画壇に重きをなしていた春挙は、世事で煩わしい京都市内よりも、制作の中心をここに移したかったのかもしれません。

 



とはいえ、蘆花浅水荘の仕上げに入っていたであろう1919(大正8)年には帝国美術院会員に任じられ、公的な仕事も増えてますます忙しくなっていた春挙ですから、簡単に膳所へ引きこもるわけにもいかなかったようで、京都市内にはちゃんと本邸を構え続けていました。

その京都本邸は高倉丸太町、京都御苑のすぐ南に位置していました。
1911(明治44)年から住みはじめ、結局ここが春挙、終の住処となりました(この本邸は現存していません)。

この春挙本邸のすぐご近所、歩いておそらく2分もかからないエリア、間之町竹屋町に住んでいたのが上村松園(1875-1949)です。
松園は1914(大正13)年、ここに画室を構えていますから、ちょうど春挙晩年の約10年間、ご近所さんの関係にあったことになります。
なお上村家住宅は今でも間之町通に現存しています。

 

上村家住宅(間之町竹屋町)

 

同じ京都画壇の人とはいえ、山元春挙上村松園は実に対照的な画家だったといえるかもしれません。
春挙はどんどん野外に出かけては雄大華麗な山岳絵の大作に代表される風景画を得意とした画家。
弟子たちとサークルを組んで登山までしてしまう、アウトドア系の人です。

他方、松園は師匠の竹内栖鳳からあまりにも画室にこもって絵ばかり描いていることを呆れられるほどのインドア派。
美人画を専らとし、風景画とはほとんど無縁の人でした。

森寛斎晩年の愛弟子である山元春挙と、幸野楳嶺-竹内栖鳳の系統につながる上村松園
二人は画壇の集まりで顔をあわせたことは何度もあったようなのですが、いわゆる「ご近所さん付き合い」をしたというような親しい関係ではなかったようです。

ただ、山元春挙がなくなった直後、上村松園は「都市と芸術」(1934年4月号)に「古い記憶を辿って」という一文を発表し、春挙を追悼しています。

下記青空文庫で全文を読むことができます。

上村松園 古い記憶を辿って 山元春挙追悼

 

とても面白いやりとりが記録されています。
電車でたまたま春挙と乗り合わせた時に会話したという松園の証言です。
蘆花浅水荘のことが話題になっています。
松園が「膳所の別荘は大変立派だそうですね」と挨拶すると、春挙は「あなたはまだでしたか、御所の御大典の材料を拝領したので茶室をつくりました、おひまの時はぜひ一度来てほしい」と、この人らしく屈託なく蘆花浅水荘を自慢しています。
結局、これが松園と春挙の最後の会話になってしまったようです。
春挙逝去の前年、偶然電車の中で交わされた、ある意味、生々しい対話です。

二人が乗り合わせた電車は、ひょっとすると当時、両者の住まいのほとんど目の前を走っていた市電丸太町線だったかもしれません。
「御大典」とあるのは1928(昭和3)年、京都御所で行われた昭和天皇即位式のことです。
大嘗祭主基地方の屏風を任された春挙に、儀式で使われた建物の材料が下賜されても不思議ではありません。
その時作った茶室はおそらく現在の蘆花浅水荘本館とはやや離れてたつ「穂露」と名付けられた建物だと思われます(ここは原則見学できません)。
せっかく建てた新しい茶室ですが、松園とこの会話が交わされた時期から推測すると、ほとんど春挙がそこを使うことはなかったのではないかと思われます。