「ノロワ」(Noroît)は1976年の制作。
今回の「ジャック・リヴェット映画祭」で初めて日本劇場公開される作品中の一本です。
パリやその郊外など、都市とその周辺での出来事が描かれることが多いリヴェット作品。
しかし本作では珍しく辺境の孤島が舞台です。
タイトルは「北西」を意味しています。
方位を表すこの単語が、ある秘密の場所を示す言葉としてセリフの中にもみられますが、そもそもこの映画が主に撮影されたブルターニュ地方自体が、フランス国土の中で「北西」に突き出たような形をしています。
ブルターニュの海と風と土、そのものを暗示してつけられた題名なのかもしれません。
そして、この映画の美しさの、その大半を決定づけている要素は、まさに映し出された「空気」そのものです。
しかし、映画全体としてみた場合、好みかといわれると微妙な印象です。
ジェラルディン・チャップリンとベルナデット・ラフォン。
二人の超重量級俳優が、お互い女海賊として対決するという奇想天外な映画です。
もともとトーマス・ミドルトンによる戯曲"The Revenger's Tragedy"「復讐者の悲劇」がベースとなっているそうです。
テロップで「第2幕1,2場」などといちいち表示されるのは、ミドルトンの劇を大枠としているからでしょう。
実際、戯曲もこの映画も全5幕で構成されています。
また、時々突然、英語の台詞がシェイクスピア劇のように挿入されるのも、ミドルトンをオマージュしての演出だと思われます。
といっても、リヴェットはミドルトン戯曲に登場する大半の人物を女性に置き換えてしまったりしていますから、当然、素直に原作が扱われているわけではありません。
わざわざ17世紀イングランドの戯曲を土台にしてリヴェットがこの映画で仕掛けたかったことは、おそらく「舞台」そのものの映画、ではないかと感じました。
「舞台の映画化」ではなく、まさに「舞台」の「映画」。
セリフ回しや役者の表情づけ、双方に「演劇」の気配が強く漂っています。
物語が進行する時代としては当然に近代以前が設定されているのですが、役者たちの格好はどうみても現代風です。
「映画」としては違和感があっても、「舞台」ならこの演出は許されます。
青みを帯びた淡い鈍色の空気が支配する、いかにも中世的な城を背景に、実際の舞台では演出しきれない要素を取り入れつつ、あくまでも「演劇」としての姿は壊さずに「映画」として仕上げていく手法がとられています。
リヴェットは後に「彼女たちの舞台」で、「演劇」そのものをテーマとして傑作を撮っています。
しかしこの「ノロワ」では、どうもその「演劇=映画」としての企画意図が強すぎて、映画自体としてはやや空回り気味な印象をもちました。
復讐劇ですから暗くて重い基調は当然としても、主役二人の雰囲気ともども、リヴェットの持ち味である、ある種の軽妙さがこの映画ではほとんど感じられないのです。
「デュエル」同様、「舞台」としての「映画」を象徴するように、ここでも音楽を奏でるプレーヤーたちが堂々と同じ画面に映っていて、まるで海賊たちの城に雇われた楽師たちといった風情で登場します。
ややエスニックに寄ったアンサンブルで舞台に色をつけていきますが、「デュエル」でのピアノの方がまだしっくりくる感じを受けます。。
それと、とにかく男性俳優たちの素人臭さが凄い。
観ているこちら側がだんだん恥ずかしくなってくるくらい演技が下手です。
例えばブレッソンのように役者から「演技」臭を完璧に取り除くのであれば、それはそれで面白いのですが、ここで女海賊頭の手下を演じている男性たちの演技はいかにも中途半端です。
海賊の話なのに大半の登場人物を女性に設定しているところからも、リヴェットがあえて直接的な「男性性」を薄めて、復讐劇の「演劇」としての純化を図っていそうなことは理解できるのですが、それにしても、というレベルです。
せめて、「メリー・ゴー・ラウンド」で起用したモーリス・ガレルのように「押さえ」になるような男性俳優を置いて欲しかったと感じました。
「ノロワ」は、リヴェットがネルヴァルの『火の娘たち』に着想を得たという「四部作」の第2作(第1作目が「デュエル」)として制作されましたが、残る第3,4作は結局誕生しませんでした。
ブルターニュの空気感が美しく、素敵な作品とは思いまいすが、「舞台」をテーマとした作品としては、やはり「彼女たちの舞台」のレベルには及ばないような気がします。