開館60周年記念
甲斐荘楠音の全貌―絵画、演劇、映画を越境する個性
■2023年2月11日〜4月9日
■京都国立近代美術館
京都国立近代美術館、満を持しての甲斐荘楠音展です。
実は、1997年、すでに京近美は楠音の特集企画展を開催していますから、この画家に一定の義理は果たしていたはずなのですが、その内容に実は満足はしていなかったということなのでしょう。
「日本画家」という枠では捉えきれない、甲斐荘楠音(1894-1978)の、文字通り「全貌」に迫った空前絶後の大回顧展です。
京近美の意気込みは展覧会のタイトルに如実に現れています。
この画家は、1931(昭和6)年以降、「甲斐庄」と、本名の「荘」を「庄」に取り替えて作品を発表していたことから、彼をとりあげる場合「甲斐庄楠音」とする表記が一般的でした。
しかし、池田祐子副館長が図録冒頭の文章で宣言しているように、この展覧会では本名である「甲斐荘」をあえて採用しています。
映画の世界にも大きな仕事を残したこのアーティストにとって、「日本画家・甲斐庄楠音」の名前はそのごく一部を表しているにすぎないことが、「甲斐荘楠音の全貌」というタイトル自体に強くこめられているのです。
実際、展覧会の作品数構成は、《日本画》 : 《芝居などの関連資料》: 《映画関係》の比率が、およそ、1 : 1 : 1。
大きく引き伸ばされた甲斐荘のさまざまな様態を記録した写真が、異様な迫力で会場内を飾る中、大量のスケッチ類やスクラップブック、そして映画「旗本退屈男」で実際に使用された華麗な衣装群が展示室を占領していました。
会場自体からむせかえるように溢れ出てくる甲斐荘楠音というの男の強烈なキャラクター。
これほど一人の芸術家に生々しく迫った展覧会も珍しいかもしれません。
ところで「甲斐荘」という珍しい苗字は、楠木正成に連なる由緒を持つ家名とされています。
1970年、楠音は親族の結婚式に際し、自分の家系が大楠公につならることを実に誇らしげにスピーチ(求龍堂『甲斐庄楠音画集 ロマンティック・エロチスト』所収)しているのですが、これって本心からそう思っていたのか、私には少し疑問に感じるところがあります。
楠音の父、正秀は、甲斐荘本家の血筋をひいていない養子でした。
母親の勝も御所侍を務めていたという家系の出とはいえ、楠木正成一族とは関係ありません。
しかも後継にと請われて養子になったにも関わらず、総領として別に実子が生まれてしまったため、結局、正秀は甲斐荘本家から離縁されています。
楠音は、甲斐荘という名跡を持つ家に生まれながら、実は楠木一族と、直接的にはつながってはいないという複雑な立場をどう理解していたのでしょうか。
長兄で高砂香料工業(本展にも協賛)の創業者として成功をおさめた甲斐荘楠香(1880-1938)は、弟妹たちに家系のことをみだりに口にすることがないように強く戒め、楠音もそれにしたがっていたと上記スピーチの中で述懐しています。
その禁を破り、晩年、親族祝いの席で大楠公とのつながりをとってつけたように楠音があえて披露したのは、婚姻相手方の家系に勝ることを示したいがため、京都人特有のマウンティングのくせが、晴れがましい席に呼ばれた嬉しさのあまり、うっかり頭をもたげてしまったのではないかなあ、と想像をめぐらせています。
その証拠というには弱いかもしれませんが、楠音は、いわゆる歴史画の類をほとんど描いていません。
同じように南朝方の重臣、千種忠顕を祖先にもち、歴史画を盛んに描いたほぼ同時代の画家、千種掃雲と比較すると対照的ともいえます。
心底、楠木正成を先祖としてリスペクトしていたなら、湊川合戦ゆかりの一枚くらい残しても良さそうですが、その実績はどうやらないようなのです。
さて、父正秀という人は、養子とはいえ、西本願寺大谷家とも姻戚関係にあった旧家の出であり、特に落ち度があった人ではありませんでしたから、離縁に際し、家名の継続使用権とともに莫大な慰謝料を甲斐荘総領家(のちに楠姓へ改称)から受領することになりました。
河原町丸太町から少し南西あたり、西革堂町にあったという屋敷には正秀の「二号さん」も一時暮らしていたようです。
幼い楠音は芝居好きだったというこの女性を引率役として南座に出入りするようになり、すっかり芝居の世界にのめりこむようになります。
その際、しっかり母親の許しを得て観劇に向かっていたことが、図録所収の座談会記録における楠音の発言で確認できます(P.128)。
二号さんを囲って暮らす贅沢な父と、それを鷹揚に認めた挙句に息子の観劇付き添い役を任せるという母。
そして芝居通いのおかげで虚弱体質が治ってしまったという楠音。
現代の感覚からすると、異様としか言いようのないこの幼少時の環境が、楠音の趣向に決定的な影響を与えたのであろうことは、発達心理学とは無縁の素人でも容易に想像できます。
京都帝大出身の兄楠香はおそらくこういう実家の環境が肌に合わなかったのでしょう、欧州留学の後は、東京、神楽坂、牛込区若宮町(現新宿区若宮町)に居を構えて京都を去ってしまいました。
なお、楠音は父が亡くなった後、この長兄の戸籍に属していましたから、彼の籍自体は実は京都ではなく、長く東京にあったことになります。
(楠音が戸籍を楠香家から抜いて独立するのは1964年、70歳になってから。以降は出水油小路の地を戸籍地としています。)
映画演劇に関する資料の比率が高いため、京近美は謙遜してこの展覧会における絵画にあてられたコーナーを「小さい甲斐荘楠音展」と称しています。
確かにお馴染みの代表作を中心にややコンパクトにまとめられているようにも一見感じられるのですが、個人蔵の珍しい作品の数々も披露されていて、「全貌展」にふさわしい内容に十分なっていると感じます。
中でも97年の回顧展以降に発見され、現在はメトロポリタン美術館に収まってしまっている「春」(1929)と題された屏風絵は、大正期のグロテスク趣味から一皮剥けた、この人にしては新古典的な明るさが印象的な傑作。
初めて観ることができました。
スクラップブックに丁寧に貼り付けられた写真や新聞記事の数々が展示されています。
三島由紀夫の姿が確認できます。
歌舞伎好き、映画好き、ホモセクシャル。
甲斐荘楠音と三島の近さはすぐに想像できるところですが、実際、楠音が三島を意識していたことが確認できる重要なエヴィデンスともなっていると思います。
甲斐荘楠音の年表を眺めていて驚くことがあります。
この人は、だいたい50歳から70歳になる直前までの20年間、ほとんど映画の仕事しかしていないのです。
実績からみれば京都画壇の巨匠として十分尊崇を受けてもおかしくない年代を前に、仕事場を太秦に移してしまったかのような潔さ。
甲斐荘楠音といえば溝口健二で、特に「雨月物語」での風俗考証が有名なのですけれど、溝口作品だけでなく、おびただしい時代劇映画での衣装デザイン、美術考証で活躍していたことが明らかにされています。
本展ではおそらく初めて、甲斐荘が関わった全ての映画作品に関する記録がまとめられていて、まさに「全貌」展にふさわしい、非常に貴重なドキュメントにもなっていると思います。
映画に関するパートでは、市川右太衛門が実際に羽織った、旗本退屈男シリーズの衣装を所狭しと陳列。
大きな顔そのもので芝居をしているようなこの時代のスター俳優の身体を包んだ甲斐荘デザインによる衣装は、右太衛門の顔と一体となって動く染織工芸のような効果を生み出したのでしょう。
圧巻です。
展覧会最後のコーナーには、未完の大作二品、「畜生塚」と「虹のかけ橋 (七妍)」が置かれていました。
後者は、1976年、楠音82歳のときに、京都国立近代美術館が購入した作品です。
1978年、83歳で亡くなる甲斐荘楠音を「画家」として最晩年にあらためて認めたのもこの美術館でした。
なおこの展覧会は東京ステーションギャラリーに巡回(7月1日〜8月27日)します。