東福寺 龍吟庵公開と重森三玲の「節度」

 

 

東福寺塔頭、龍吟庵が久しぶりに公開されたのでお邪魔してみました(2023年11月1日〜12月3日)。

コロナ制約も解けた中、ようやく見ごろを迎えた紅葉の季節ですから、名所通天橋を中心とした東福寺境内はまるでお祭りのような賑わいをみせています。

 

しかし、やや奥まったところに位置する龍吟庵は幸いなことに私が訪れたときは見学者も少なく、混雑害とは無縁の静かな環境で鑑賞することができました。

なお、建物内部の写真撮影はNGとなっています。

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国宝の方丈が建造されたのは南北朝時代、1387(嘉慶元)年とされています。

ただ、文化庁のデータベース上は1387年ですが、一部の建築関連書籍をみると室町時代、1428(応永35)年としている解説もみうけられます。

 

いずれにせよ、龍吟庵の開創である東福寺第三世無関普門(1212-1292)が居住していた頃からみると100年くらい経過した後の建造ですから、鎌倉時代、開山当初の仕様がそのまま完璧に再現されているのかどうかはわかりません。

しかし、応仁・文明の乱を生き残り、明治の東福寺山内火災にも巻き込まれなかったこの建築物は、現存する「方丈建築」の中では最古といわれ、日本建築史のテキストでは必ずといってよいほど登場する非常に重要な遺産の一つです。

 

 

目立った装飾はなく、こけら葺の屋根が醸す軽快な雰囲気もあって、意外にモダンな印象すら感じる建物です。

シンプルにほぼ六等分された室内構成も含め、近世の方丈建築にはない古雅さがあり、そこがこの建物の大きな魅力になっているようです。

最大空間である「室中」の両隣に「礼間」「檀那間」を設け、その北側に「衣鉢間」「眠蔵」「大書院」が並んでいます。

後世では室中に置かれることが一般化する「仏壇」が「眠蔵」の一部に組み込まれていますから室中空間が簡素、かつ、かなり広く感じられます。

生活、来客接待、仏事、三つの機能を備えた「方丈」としての役割が必要かつ十分に達成されている実に合理的な建物です。

 

龍吟庵 開山堂

大明国師無関普門の彫像を収めた「開山堂」が方丈のすぐ北側に建立されています。

開山堂自体は1975(昭和50)年に竣工した比較的新しい建物ですが、中に安置されている無関普門の頂相彫刻は、そのリアルな表現から無関生前の姿を写した鎌倉時代制作のものといわれています。

現在、京都国立博物館で開催されている「東福寺」展(12月3日まで)では、この坐像の中に収めらていた納入品が陳列されています(坐像自体の展示はありません)。

小さいながらも丁寧に造作された舎利容器など、独特の工芸美をみることができます。

無関普門坐像自体が、鎌倉時代のタイムカプセルだったというわけです。

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さて、この龍吟庵方丈を囲んで、東西と南、三面に庭園が設けられています。

いずれも、昭和の名作庭家として知られる重森三玲(1896-1975)によって制作された枯山水です。

西に「龍の庭」、東に「不離の庭」と名付けられた、かなりデザイン性を優先した、三玲らしい空間が創造されています。

 

龍吟庵 東庭

 

この作庭家による現在最も有名な作品の一つが、「市松模様」で知られる東福寺方丈庭園です。

東福寺本体での実績が、再び重森三玲塔頭龍吟庵の作庭を任せることにつながったのでしょう。

しかし、東福寺方丈庭園が1939年の作庭であるのに対し、龍吟庵の庭園は1964年ですから、ちょうど四半世紀、時が隔てられてのプロジェクトだったことになります。

 

重森三玲という人の根底にあった美意識は、やはり、「前衛」なのではなかったかと思います。

今では専ら作庭家としてのみ知られる三玲ですが、かつては草月流の勅使河原蒼風(1900-1979)とともに、革新的な「いけばな」を提唱した華道家でもありました。

 

今年の夏、京都国立近代美術館で開催された「走泥社再考」展では、この前衛陶芸グループの最初期も丁寧に紹介されていました。

走泥社のメンバーたちがまず手がけた作品の多くが、実は、重森三玲たち前衛華道家たちとのコラボレーションによって生まれています。

完全なオブジェ焼きが創造される前、その「導火線」的な役割を果たしたのが、いけばなの革新家たちだったのです。

重森三玲の庭から感じる一種の「鋭さ」は、伝統的な日本庭園の作法とは明らかに違う、こうした前衛のエネルギーから生じているのかもしれません。

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龍吟庵 西庭

 

ただ、個人的な好みでいうと、龍吟庵の西と東の庭からは、建物のシンプルな美しさに対し、やや「うるさい」印象を受けてしまうのです。

東福寺方丈や光明院の庭園でみせた、思い切りの良い、この人らしい鋭いセンスがやや後退しているようにも感じます。

中途半端な「具象」性が特に東の「龍の庭」を陳腐な雰囲気に仕上げている一方、西庭に見られる赤砂の採用も前衛性より作為性が強いように思えるのです。

東庭も西庭もさほど広くはないスペースに造作されていて、特に西の庭はほとんど坪庭です。

無理にデザイン性の強い庭をここに作り込む必要があったのでしょうか。

建築の格と庭の格が釣り合っていない、とまで言ってしまったら重森三玲ファンに怒れられそうではあります。

 

私が龍吟庵を囲む三庭園の中で、一番好きな庭は、南側、「無の庭」です。

ここで重森三玲は、石一つ置かない、完全な白砂のみの空間を生み出しています。

龍吟庵方丈正面自体が醸し出す、「無駄なものはいらない」という絶対的な気品に呼応するデザインは、やはり「何もいらない」ということだったのでしょう。

60歳代後半に入っていた大作庭家、重森三玲の「節度」が見事に表された庭だと思います。

 

龍吟庵 南庭