智積院 最古の建築「密厳堂」

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東山七条に大規模な伽藍を構える智積院

しかし、境内に建ち並ぶ堂宇の多くは近代に入ってから建てられたものです。

 

この真言宗智山派の総本山は、1601(慶長6)年、徳川家康によって寄進された東山の地所から、その京都での歴史が始まります。

1615(元和元)年には豊臣家ゆかりの祥雲禅寺が寺域にくみこれますが、1682(天和2)年にはさっそくに方丈が炎上。

金堂(本堂)も明治に入ってから焼け落ちてしまいます。

現在の金堂は1975(昭和50)年に再建された鉄筋コンクリートの大建築。

かつて方丈と呼ばれていた建物は「講堂」として1995(平成8)年、新たに造営されています。

寺内には1966(昭和41)年に建設された増田友也設計によるモダニズム建築の傑作「智積院会館」がありました。

しかしつい最近、残念ながら取り壊され、2020(令和2)年、新しい宿坊ホテルに生まれ変わっています。

主要堂宇が近代建築に入れ替わってしまった上に、昭和後期の建築ですら建て替えられてしまうという目まぐるしい動きを見せてきた伽藍です。

 

そんな智積院ですが、江戸時代前期、比較的創建当時に近い時期に建てられたお堂も残されてはいます。

「密厳堂」。

智積院内最古の建築物として残っている仏堂です。

1667(寛文7)年に落成しています。

非公開エリア内にあるので普段は立ち入ることができませんが、今年の冬、京都市観光協会主催により、特別公開されました(2022年1月8日から30日まで)。

 

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智積院 密厳堂

寺の中心である金堂の北西側に小高い場所があります。

威容を誇る昭和の金堂や、一見瀟洒な平成の講堂とは違い、実に質素なお堂が佇んでいるエリア。

「密厳堂」に祀られているのは智積院のルーツともいえる根来寺の開山、興教大師覚鑁

それにちなみ、この建物は「開山堂」とも呼ばれています。

 

「密厳堂」の東隣には鳥居を備えた拝殿をもつ「三部権現社」があり、こちらも17世紀前半頃の建立とされています。

さらに南側にある「求聞持堂」は1851(嘉永4)年の上棟。

いずれも根来寺以来の新義真言宗に関わりが深い建築物が並んでいます。

建物の前には参拝者向けの説明板が立っていたりしますから、以前は公開されていた場所なのかもしれません。

 

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智積院 三部権現社拝殿

三つの建物が存するこのエリアは智積院の最も奥まったところにあたります。

各々の建物自体に際立った魅力があるわけではありません。

近世の一般的な寺院にありがちな仕様が手堅くまとめられている建築。

お堂を囲む庭もごく普通。

しかし、そこが逆に観光擦れしていない、「普通の江戸時代のお寺」のような雰囲気をよく残していて、不思議と落ち着いた気分にさせてくれる空間です。

 

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智積院 密厳堂エリア

さて現在、智積院を訪れる人のお目当てはなんといっても宝物館に収められた長谷川等伯と息子久蔵による国宝の桃山障壁画でしょう。

いくら寺内最古の仏堂とはいえ「密厳堂」には宝物館の絵画に匹敵するような魅力はとてもありません。


しかし、これは智積院の歴史からみればたいそう皮肉な状況ともいえます。

長谷川一派による障壁画はもともと豊臣秀吉が早世した息子鶴松の菩提を弔うため、この地に建立した「祥雲禅寺」内に描かせたものです。

一方、智積院のルーツはその秀吉に攻められて灰燼に帰した紀州根来寺にあります。

根来寺壊滅後、高野山、ついで京都に逃げ延びた僧たちが法灯の再興を期して徳川家に嘆願し、ついに手にした東山山麓の地所。

そこはかつての豊臣家ゆかりの土地であり、「祥雲禅寺」でした。

秀吉に攻め滅ぼされた寺の人々に、自分が滅亡させた豊臣家ゆかりの地所をあてがうという家康の冷徹さに慄然とします。

智積院にとっても仇敵秀吉が残した寺の居心地は微妙だったかもしれません。

 

しかし、この寺が立派なのは、かつての恩讐を横に置き、長谷川一門が残した障壁画を守り抜いたところにあります。

天和2年の火災のとき、障壁画群は取り外され難を逃れています。

そして、今、智積院の中で最も価値があるとされる寺宝は、根来寺ゆかりの仏堂ではなく、秀吉が描かせた長谷川等伯による「楓図」です。

とんでもない皮肉の螺旋図がこの寺には描かれているように見えてきます。

しかもその螺旋図は近代に入ってからも延長し続けたといえそうです。

明治以降、智積院の周囲にはかつて江戸幕府によって破却された豊国廟や豊国神社といった豊臣家ゆかりの施設が次々と再興されます。

結果、智積院が位置する東山七条のあたりは京都の中でも特に秀吉カラーが強いエリアになっています。

等伯の楓図と並んで、智積院観光のハイライトとなっているのが、大書院横に広がる名勝池泉庭園です。

築山に咲く初夏のサツキが特に美しい庭として知られています。

しかし庭に接する大書院には楓図などの複製模写が襖絵として派手に飾られていて、ここではまるで「似非秀吉カラー」が庭を侵食しているかのようです。

庭だけで十分素晴らしいのにケバケバしい等伯画の模写が通俗の空気を漂わせていて、とても残念な気分になってきます。

講堂や大書院周辺も「密厳堂エリア」並に質素に整えればよほど庭園の気品が映えるように思えます。

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