北大路の大谷大学博物館で「京都と大火」と題された展覧会が開催されています(2021年1月27日〜2月26日 無料・事前予約制)。
「伴大納言絵詞」で有名な応天門炎上事件から幕末元治の大火まで、京都を襲った炎のカタストロフ史を、主に江戸時代の文書などを手がかりに紹介。
絵面や写真を使って、どこが火元でどこまで焼き尽くされたのかイメージしやすいように工夫された企画展です。
特に大谷大学の源流である東本願寺が被った火災の様子は、当時の法主が避難したルートまで細かくトレースしていてなかなかに臨場感がある展示でした。
何度も焼け野原になった京都ですが、最初の大規模火災として知られるのが1177(安元3・治承元)年の「安元の大火(太郎焼亡)」。
鴨長明『方丈記』にその悲惨な有り様が記されていることでも有名です。
樋口富小路、現在でいうと河原町五条からやや西北西、旧有隣小学校(現有隣公園)の東側あたりで出火した炎は、そこから北西方向に走りながら平安京の三分の一を焼き払い、巨大ストリートであった朱雀大路をも越えて、北限は大内裏まで達したとされています。
その後、内裏は再建されたものの、約50年後、承久の乱を経た1227(安貞元)年、完全に焼失してしまいます。
今の千本丸太町あたりにあった平安宮は、以後、再建されることはなく、一帯は「内野」として荒廃していくことになります。
この平安京大内裏完全焼失のまさにその年、1227年、「内野」となる焼け跡の北側近くに建てられたのが大報恩寺。
通称、千本釈迦堂です。
応仁の乱はいうに及ばす、その後の近世三大大火(宝永・天明・元治)もかいくぐり、創建当時の姿をとどめている、洛中最古の仏教建築です。
鎌倉時代の建築物ということになりますが、後に主流となる禅宗・浄土教様式や、桃山的要素がまったくみられない、平安京時代の建物として唯一無二の国宝です。
一目見ただけでその優美さが後代の寺社建築とは異質のレベルであることが感得できます。
滑らかな曲線を描く檜皮葺の屋根。
寝殿造の雰囲気を伝える蔀戸。
奈良平城京の荘厳な組物とも、桃山以降の派手な装飾とも無縁なその典雅さにじんわりと感動してしまう。
大根焚きや「おかめ」のエピソードで語られることが多い寺院ですが、純粋にこの本堂の美しさだけで特級の価値をもっています。
こんな貴重な建物なのに、不釣り合いなほど狭い境内に驚きます。
往時は相当の規模を誇ったとされていますが、現在は今出川通から伸びる細い参道と新七本松通からの西側入口があるだけで、周囲は昔ながらの木造の家々に取り囲まれています。
京都市が立てた寺の由緒書によると、この寺の創建者は奥州藤原氏三代秀衡の孫、義空上人。
そしてこの土地を寄進したのは「猫間中納言光隆」に仕えた「岸高」という人物とされています。
猫間中納言について由緒書は何も説明していませんが、この藤原光隆という人は、ほぼ『平家物語』の中だけで知られる人物だと思います。
「猫間」とは当時七条壬生あたりを指していた地名といわれていて、そこに住んでいたから「猫間中納言」と通称されていた公卿。
通称の由来を知らず、「猫殿」としてからかった木曾義仲の田舎者ぶりを伝えるくだりで登場します。
それだけの人です。
『平家物語』における音声的な「語り」の味がよく出ていて有名なエピソードではありますが、特に歴史上重要な仕事をしたという貴族でもありません。
さらにその家来である岸高が寄進したというわけですから、大報恩寺の権門としての基盤は、当初からそれほど高いものではなかったのかもしれません。
名前はそこそこ知られているのだけれど、なんとなく歴史的に頼りない人たちによって誕生したお寺といえそうです。
その微妙な寺勢と火をよけ続けた幸運が重なって、実質的に平安京を偲ばせる唯一のレガシーとして残されている傑作建築物です。
大谷大学の「京都と大火」展をみた後に千本釈迦堂あたりを散歩。
この建物の奇跡的存在価値を再認識しました。