平安神宮神門の入口西側に、京都市が立てたこの神社の由緒書があります。
以下に抜粋引用してみます。
"平安京奠都の延暦十三年(794)より千百年にあたる明治二十八年(1895)、桓武天皇を祭神として創建された。紀元二千六百年にあたる昭和十五年(1940)には、平安京有終の天皇である孝明天皇も合祀された。
社殿は平安宮の中心施設である朝堂院をおよそ八分の五に縮小して復元されている。二層の神門は應天門、中央正面一層入母屋造の拝殿は大極殿、そこから連なる左右の回廊から東に蒼龍楼、西には白虎楼がある。いずれも平安京のものを厳密に考証して復元された国指定重要文化財である。なお、昭和四年に建立された大鳥居及び昭和十五年に増築された社殿群は国の登録有形文化財である。(以下省略)"
由緒書の中に「平安京のものを厳密に考証して復元」とあります。
この「復元」設計のプロジェクトを実際に成し遂げた中心的存在が、木子清敬(きご きよよし 1845-1907)、伊東忠太(1867-1954)、佐々木岩次郎(1853-1936)の三人ということになります。
平安神宮は、本願寺伝道院、祇園閣と並ぶ伊東忠太の京都における代表作です。
まだ彼が東京帝国大学大学院在学中の仕事。
当時日本建築史の教鞭をとっていた木子清敬の推挙によってこの事業に抜擢されたのだそうです。
この建築物は由緒書にある通り「復元」が目的なので、伊東の真の個性が発揮された作品とは言えません。
また、共同で復元にあたった木子清敬は禁裏修理職を代々になった木子一族の出身。
佐々木岩次郎は同じく木子一族であった木子棟斎の指揮下、明治の東本願寺再建に携わったこともある寺社建築のエキスパートです。
伝統技法の監修や実務についてはこの二人の影響も大きいと推測されます。
ただ、「厳密に考証して復元」とはいっても、正確な設計図が伝えられているわけもなく、ある程度想像によって補われた部分もあるのではないかと邪推してしまいます。
特に東西に翼を広げる回廊の突端、蒼龍楼と白虎楼の姿は、過剰に装飾的で、見ようによっては擬平安のバロックスタイルともいえるでしょうか。
8分の5に縮尺されたスケールとはいえ、この楼閣は実際に人が登ることを想定していない、純粋に装飾を目的としたデザイン。
機能としては平等院鳳凰堂の両翼と同じです。
「復元」という名のもとに、実は、伊東忠太自身のテイストがしのびこんでいるのではないか。
この奇妙に饒舌な楼閣をみるたびにそんな想像をしてしまいます。
さて、大極殿や楼閣などが重要文化財だと由緒書に記されていますが、その指定は2010年(平成22)年とかなり最近のことです。
昨年2020年は指定から10周年だったことになります。
なお、同じく伊東設計による本願寺伝道院は平安神宮指定の4年後、2014(平成26)年に重文指定されています(祇園閣は重文ではありませんが、国の登録有形文化財として1997(平成9)年登録)。
冒頭に引用した京都市の由緒書は平安神宮の重文指定をふまえ、2010年以降にわざわざ立てらたものということになります。
とすれば、この機にその設計者たちの名前にも敬意を払うべきだったんじゃないかなあと感じます。
名もなき平安の工人たちによる業績ではなく、この建物は立派な「明治近代建築」なのですから。