近代京都の染織界を代表する一人、山鹿清華。
とても長生きをした人で、1885(明治18)年京都市に生まれ、1981(昭和56)年に亡くなっています。
今年2021年は清華没後40年ということになります。
ちょうど京都市京セラ美術館では、「コレクションとの対話」と題した企画展(10月9日〜12月5日)の中で、繊維造形作家 ひろいのぶこ が山鹿清華の作品と「対話」するというコーナーが設けられ、清華の遺品や染織と ひろいのぶこ の造形作品が組み合わされた展示を楽しむことができます。
また、同館の秋期コレクション展(10月2日〜12月5日)では清華が昭和後期に織り上げた3作品を展示。
さらに、お向かいの京都国立近代美術館は明治末年頃の仕事である屏風絵「白樺」をコレクション展(9月2日〜11月7日)の中で公開です。
没後40年を特に意識したわけではないようですが、この秋、ちょっとした山鹿清華特集が岡崎で繰り広げられています。
清華はあの山鹿素行の子孫なのだそうです。
でも生まれた当時、父親は印刷工房を営んでおり、山鹿流の兵法や儒学といった要素が生家の環境にあったのかどうかはわかりません。
西陣織の図案家等に学んだ後、神坂雪佳に師事しています。
京近美が蔵する「白樺」は伝統的な日本画の屏風。
しかし雪佳の影響なのか、工芸品のように様式化された精巧さと写実の美が両立されていて、どことなくモダンな印象も受ける作品です。
昭和に入る頃になると、独自に編み出した「手織錦」という染織製法を大きく展開し、描くモチーフは伝統の枠を離れてどんどんユニークで尖ったものになっていきます。
「手織錦」とは、完全分業体制が当たり前だった京都染織界の伝統と訣別し、図案から糸選び、染色、織り上げまで全て作家一人が行うプロダクト。
以前鑑賞し記憶に残っている手織錦の作品が東京藝術大学蔵の「熱河壁掛」です。
昭和12年に製作されたタペストリー(これは現在、京都には来ていません)。
チベット寺院群を背景にフタコブラクダを大きく前面に織り出しています。
平板さと立体感が巧に合成された、いわば織物ならではの遠近法がみられる大作で、「手織錦」に清華が手応えを感じていたであろうと想像できる大胆な染織工芸です。
モチーフの斬新さは老年期、昭和後期に入るとむしろとめどもなく先鋭化します。
京都市美術館今年の秋季コレクション展でみられる手織錦作品では、ロケットや宇宙、東京タワーまでもが、なんの衒いもなく素直に織り出されています。
若い頃の精巧さは減退していますが、年齢を重ねるほどに題材は伝統染織の枠を大きく飛び出していくかのよう。
全体的な印象は若さというより、もっと突き抜けて、幼さが弾けるような不思議な面白さが感じられます。
しかし、例えばロケットを図柄とした手織錦「星座・月・ロケット」(昭和33年)では、中央のロケットを囲むように狛犬のような獅子などが自在に描かれ、見る角度によってさまざまな色彩が明滅するような幻想味が仕込まれています。
モチーフが奇想天外になりつつも、完全に自己完結したかのような抽象世界には足を踏み入れていません。
あくまでも工芸の一つとして、冷たく孤立するのではなく、生活を彩ることを意識した姿勢が作品からは感じられます。
そういった清華のどこか温かみが残る作風に期待したのか、建築家村野藤吾が大仕事を彼に依頼します。
蹴上の都ホテルです。
1937年、ホテル全体の建築を担っていた村野は中宴会場の室内装飾を清華に任せます。
中宴会場は1992年に改装され、現在はウェスティン都ホテル京都「稔りの間」となっています。
「豊穣」と名付けられていた清華の板絵は改装時に取り外されました。
遺族と京都文化博物館がその板絵の一部を保管していて、現在「コレクションとの対話」展で展示されています。
単純化された南方系とみられる植物が明るく大柄に描かれた板絵。
村野流のモダニズムと軽快に呼応したダイニングホールの様子が想像できます。
岡崎にあったという山鹿清華の自邸が引き払われたとき、多くの染織に関係した遺品が残されたのだそうです。
現在、京都市美術館がそれを受け継いでいて、「コレクションとの対話」展では、ひろいのぶこ が、残された下絵や糸を受けて、自身の作品を重ねています。
手法だけではなく、糸や繊維自体にも非常にこだわっていたという清華。
ボコボコとした繊維のコブをそのまま画面の凹凸として残したような作品には素材そのものが放つ個性を旺盛に取り込もうとする清華の好奇心が伝わってきます。
「手織錦」は、自分一人で作品世界を完結させたいという清華の、現代のアーティストとしては当たり前の欲求によって生み出された製法。
しかしこれは分業を基本とする伝統的な京都における染織体制からみたとき、明らかな叛逆行為とみなされたのではないかと思われます。
清華が、伝統的な図柄から当時最新の事物などにモチーフを求めていったのは、おそらくそうした既存の染織文化から跳躍しようとする力が、バネのように働いたからなのかもしれません。
晩年までその飛び跳ねる力は衰えることなく、枯れるというようなこととは無縁の人だったように思います。
ただ、作品の好みという点でいえば、昭和前期までの精巧な美にどうしても魅せられてしまう。
ひろいのぶこ は山鹿清華との「対話」の試みの中で、「山鹿さんのことがよくわからない」と正直に吐露していたそうです。
とびきり先鋭な孤高の芸域に達していた、ということなのかもしれません。