大徳寺の塔頭、大光院が特別公開されたので見学してきました。
(2022年1月17日〜3月18日 期間中拝観休止日あり)
寺名は豊臣秀長の戒名「大光院殿」からとられています。
もともとは大和国を治め同地で没した秀長の墓所として16世紀末、大和郡山に建立された寺院です。
秀長の系統が早くに断絶したため、家臣筋の藤堂高虎によって奈良から京都に移され大徳寺の塔頭となった歴史をもっています。
江戸時代後期、1824(文政7)年に焼失。
その約4年後に再建されますが、1955(昭和30)年、京都市立紫野高校の校地整備に伴って移転を余儀なくされ、現在の場所に移築されたのだそうです。
聚光院や高桐院といったメジャーな塔頭と違い、滅多に公開されることがない寺院だと思います。
場所は大徳寺南門からかなり西に位置していて、バス停でいうと「大徳寺前」ではなく「建勲神社前」が最寄り。
北大路からちょっと上がったところにあって、大徳寺塔頭群の中では最も南西に位置しています。
狐蓬庵ほど大徳寺境内から孤立してはいませんが、中心エリアからは外れていて、総門や南門から入るとやや遠回りになります。
門を入ってすぐ左手に「鳥塚」と彫られた石碑が立っています。
後で調べたらこの塚はカナリアを供養するために愛好団体が1955(昭和30)年に建てたものらしい。
つまり紫野高校の校地造成にひっかかり大光院がこの地に移転してきたときに合わせて建立されたものと見られます。
豊臣秀長とカナリア。
おそらく何の縁もないと思いますが、立派な供養碑です。
今回、特別公開されているのは客殿と茶室「蒲庵(ほあん)」です。
客殿前の庭に凝った景色はありません。
シンプルに白砂利と苔で整えられています。
文政年間に建てられた客殿、そのほぼ全ての襖に龍の水墨画が描かれています。
しかしこれは昭和の移転に際し、東京の、ある篤志家が大光院に寄贈したもの。
もとは屏風絵であったものを襖絵に仕立て直しているため椽やオゼの部分が白い縦縞となって画面を寸断しています。
寺の説明書によれば仙台伊達藩に伝わった狩野探幽筆の「雲龍画」とのこと。
確かに「法印探幽」の記名がみえますが、真筆とは断定できないようです。
伊達家伝来の探幽画となればもっと状態良く保存されていそうに思えます。
簡単に屏風から襖絵に設え直されてしまっているところにも違和感を覚えます。
探幽らしい丁寧な筆遣いも感じられません。
ただ、一気に大胆な筆致で描かれた龍はそれなりに気宇広大な魅力を放っていて、質素な客殿にはむしろふさわしい図像ともいえそうです。
客殿の東隣に接続して小さな茶室「蒲庵」があります。
黒田如水の好みを写しているとされ、かつてその露地に黒田長政、加藤清正、福島正則がそれぞれに石を寄進したことから「三石の席」と呼ばれているそうです。
ただ、現在の茶室については、そもそもどこから移築されたのかはっきりしておらず、肝心の「石」もなくなってしまっていますから、黒田官兵衛云々のエピソードは学術的にはっきり裏付けられているものではないと思われます。
しかし、その仕様は素晴らしいと感じました。
二畳台目の非常に洗練された小空間が創出されています。
主人客人用に天井の設えを三様に変えた工夫がみられ、ミニマルさの中にも表情の豊かさが溶け込んでいます。
躙口近くに開けられた窓はモダンともいえるデザイン。
室内には格調高い陰影が出現します。
来歴ははっきりしないものの、とても丁寧に復元された茶室だと思います。
予約優先ですが空いていれば拝観可能です(私は予約なし、ぶらり訪問でした)。
目立った寺宝はない地味な塔頭なので逆に公開機会は今後もあまりないかもしれません。
なお受付コーナーを入ってからの境内は庭を含めて全面的に撮影禁止です。