興聖寺のミステリー

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(「興聖寺」といえば、宇治の曹洞宗寺院の方が有名かもしれませんが、以下の内容は京都市上京区にある臨済宗寺院のことを記載しています)

 

堀川紫明を少し下がったところに臨済宗興聖寺派本山、興聖寺があります。

普段は非公開ですが、京都市観光協会の主催で現在特別公開されています(2022年1月8日〜3月18日)。
見学してみました。

臨済宗 興聖寺 (織部寺)

 

境内自体は堀川通から少し奥まったところにあって、交通量の激しい大通りに総門が接しているとは思えないほど静かです。
創建は1603(慶長8)年。
京都では比較的新しいお寺といえるかもしれません。
いたって普通の中規模寺院にみえます。
しかし、ここは様々な妄想の愉しみを与えてくれるミステリアスな場所でもあるのです。

寺の説明によれば開山は虚応円耳(きんいえんに)という僧。
古田織部(1544-1615)が彼に懇請して創建されたともいわれることから「織部寺」の異名をもっています。
門前に立つ京都市による寺の由来などを記した説明板にもあるように、古田織部大阪夏の陣で豊臣方と内通したとの嫌疑を徳川方からかけられ、1615(慶長15)年、自刃しています。
寺の創建から約12年後のことです。

興聖寺の仏殿(本堂)は、織部の死から約74年後、1689(元禄2)年に建てられたとされています。
1788(天明8)年、天明の大火によって方丈などを焼失。
しかし、この仏殿は奇跡的に類焼に至らなかったことになっています。
組物などは質素ですが、立派な禅宗様建築です。

 

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興聖寺 仏堂

 

でも、時期的に奇妙なズレを感じます。
古田織部は徳川家にとってスパイともいえる行動をとった大罪人です。
なのに、その死後、彼の創建による寺が衰微することもなく逆に立派な仏殿を構えることができたのはどういう事情によるものなのでしょうか。
つまり、寺や京都市の説明と、歴史の流れが妙に一致しないのです。

wikiなどを見ると全く違う説明がなされていますから、どうやらそちらにミステリーの解答があるような気もしますが、堂々と時間軸をシャッフルして「織部寺」を喧伝できていること自体が、とてもミステリアス。
かつ、いかにも京都らしくて魅力的です。

 

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興聖寺 降り蹲踞

 

方丈の奥、坪庭のようなところに「降り蹲踞」(くだりつくばい)があります。
螺旋状に穴が掘られ、底に水を受ける陶器のお椀が置かれています。

一見すると埼玉や多摩あたりに遺構が残る「まいまいず井戸」のミニチュアのように見えなくもありません。
でも底から水が湧くわけではなく、むしろこれは排水を意図した設えとみれます。
蹲踞を少し地面から掘り下げて作ることはよくありますが、ここではむしろ「螺旋」の造形を強調しているように見えます。
どうしてわざわざこんな仕様にしているのでしょうか。
例えばこの近くに小川があって、そこにめがけて「つくばい」を設えたということであれば説明がつきますが、そうは見えません。
ただただ、螺旋を巡りながら降りていくところに水があるのです。
なんとなくエロティックな魅力をたたえたミステリアスな装置と感じました。

方丈の奥には茶室「雲了庵」があります。
古田織部は藪内流と関わりがあり、「雲了庵」もこの流派の好みが反映されているといわれています。
藪内の流祖、藪内剣仲紹智は古田織部の妹を娶っています。
藪内家は西本願寺の庇護を受けたことから、下京の方に本拠地があり、その茶室「燕庵」は古田織部作の正統な写を受け継いだ由緒をもっています。
武野紹鴎以来の古式を守り、三千家には批判的な立場をとっていたとされる流派です。

 

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藪内家

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裏千家今日庵

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表千家不審庵

 

しかし、その藪内流ゆかりの興聖寺がある場所は千家本拠地の至近でもあるのです。
堀川通を渡って東に歩けば、本法寺の境内を挟んですぐのところに表千家の不審庵、裏千家今日庵の門を見ることができます。
興聖寺がある堀川寺ノ内のあたりは茶道関連の出版社「淡交社」や茶道資料館もあって千家色が非常に濃いエリアです。
そこに一つ、藪内流ゆかりの寺が睨みを効かせているというミステリアスな構図。

興聖寺の仏殿は、臨済宗では一般的な南向きではなく、東向きです。
まるで千家の茶室たちを見張るような配置で建っています。
千家と藪内家の静かな確執がこの寺の配置に仕組まれているとしたら?
妄想の愉しみは止まるところを知りません。

 

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そして、このお寺で一番ミステリアスな部分。
それは、曾我蕭白(1730-1781)をまったくといっていいほど表に出していないところです。
興聖寺にはこの絵師のお墓があります。
ところが、京都市観光局の特別公開に関する告知にも寺のホームページにも、古田織部はたくさん出てくるのに、今や若冲に匹敵する近世絵画のスーパースターともいえる蕭白については全く説明がありません。
今回の特別公開でもお墓は非公開です。
蕭白は一族の菩提寺であったこの興聖寺にとっておきの名作、「寒山拾得図」を納めています。
普段は京都国立博物館に寄託されているものの、所有は興聖寺です。
寺との関係や来歴が怪しい古田織部より、曾我蕭白の方がよほどこの寺としっかり関係を結んでいる人物に思えます。
それなのに、なぜ、蕭白を無視しているのでしょうか。

これはとてつもないミステリーです。

 

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曾我蕭白 寒山拾得図(部分・京博寄託)