■2024年9月19日~12月1日
■東京都美術館
出展作品リストにみられる総件数が300点を超えています。
過去最大規模となる田中一村(1908-1977)の超巨大回顧展です。
平日にも関わらずチケットブース前には長い行列が発生。
会場内も、場所によっては展示ケース前に二重三重の人垣ができるという盛況ぶりです。
人口密度が正倉院展をかなり上回っているといえばイメージしていただけるでしょうか。
残念ながら良好な鑑賞環境とはいえません。
土日祝日と、会期末近い11月26日からは日時指定予約制としていますが、この人気ぶりなら、既にシステムはあるわけですから、平日も臨機応変にもっと早く予約制とすべきだったのではないか、とも思われました。
都美の中原淳行学芸担当課長が図録内に「上野から奄美へー田中一村の軌跡」という文章を掲載しています。
これを読むと、今回の回顧展にみられる大人気ぶりが、田中一村本人の立場を想像すると、かなり皮肉的な状況であることがわかります。
東京都美術館が「東京府美術館」として開館した1926(大正15)年。
その同じ年に田中一村(当時は米邨)は上野の東京美術学校(現東京藝術大学)に入学しています。
学校と美術館は近い距離にありましたから、ひょっとすると出来たばかりの真新しい東京府美術館を一村もみていたのかもしれません。
幼い頃から南画の分野で天才ぶりを発揮していた彼は東京美術学校の狭き門をストレートで合格。
ところがわずか2ヶ月後、「家事」を理由として退学してしまうのです。
経済的な事情なのか、校風に馴染めなかったのか、理由は謎とされています。
そしてほぼ入学と同じ時期に誕生した上野の美術館は、その後の一村にとって、ある意味、苦々しい存在ともなっていくのです。
東京都美術館は日展等に代表されるメジャーな公募展が開催される会場でもありました。
40歳代の一村は1953(昭和28)年の日展にはじまり、1958(昭和33)年の院展まで複数回にわたって応募しますがいずれも落選。
かつて同期入学していた東山魁夷や橋本明治といった東京美術学校の卒業生はすでに審査員席に座す存在となっていました。
結局、一度も上野での公募展に入選することがなかった一村は、今となってはとても惜しいことなのですが、その応募作品を全て処分してしまいます。
東京美術学校からの退学、公募展からの拒絶と、この画家を中央画壇から遠ざけた主要な出来事は上野で起きていたわけです。
何度も苦渋を舐めさせられたのであろう「美の殿堂」東京都美術館において、生前一度も個展すら開くことができなった田中一村の大回顧展が今、開催され、多くの鑑賞者で賑わっています。
一村は奄美へ渡った翌年「東京で勝負をつける」と手紙に記していたのだそうです。
1977(昭和52)年、その「勝負」ができないまま68歳で奄美に没した画家は、泉下でこの活況をどう眺めているのでしょうか。
一村の高らかな苦笑いが響いてきそうです。
さて、田中一村といえば、メインビジュアルにも採用されている「アダンの海辺」あるいは「不喰芋と蘇轍」といった奄美時代の作品イメージが強烈です。
しかしこの展覧会では、もちろん奄美で描かれた傑作群がその終盤近くでたくさん披露されているものの、むしろ、これまで接することが難しかった「奄美以前」の画業にも強く焦点があてられています。
一村の作品を熱心に発掘している千葉市美術館による近年の新発見成果などがたくさん紹介されていて、非常に興味深い展示がいくつかみられました。
田中一村のスタートは先述した通り南画にあります。
この特別展では彼がまだ10歳代から20歳代といった青年期に描かれた南画の数々をみることができます。
驚くほど完成されたスタイルがみられます。
大正11(1922)年、画家がまだ14歳のときに描かれた「池亭聞蛙」という作品などは、線描や彩色、構図のどれをとってもすでに大家の趣を感じさせます。
もちろん彫刻家だった父のアドバイスなどもあったのでしょうけれど、伝統的な南画の技法を巧みに消化しつつ洒脱さも意識されていて、単なる若書き以上の貫禄が漂っています。
「蘭竹図/富貴図衝立」は1929(昭和4)年、21歳頃の作品です。
執拗に黒々とした枝葉を重ねた蘭竹図と、それとは対照的にまるで曾我蕭白の群仙図を思わせるような強烈な色彩感覚で描かれた富貴図。
ここには若い才能を爆発させたような一村の気迫がみてとれます。
南画でみせていた古めかしい格調高さを捨てさりたいという思いと、身につけた伝統的技法がせめぎあっている作品とも感じます。
このなんともいえないアンビバレントな作風が、公募展等では理解されなかった一因なのかもしれません。
一村は南画を完全に捨てたわけではなかったようです。
時代の変化によってこのジャンルそのものの需要が減退してきたことに伴い、それを見据えて画風を変えていった結果とも考えられています。
京都画壇との接点も見出せます。
一村は富岡鉄斎(1837-1924)をオマージュしたとみられる作品を複数描いていました。
時代的にみて生前の鉄斎と直接接点があったわけではないようですから私淑ということなのでしょうけれど、この大先達の画風を強くリスペクトしていたことがわかります。
また、与謝蕪村や木米(青木木米)のスタイルに倣った絵画もありました。
関東に比べ関西とは縁の薄い画家とみられる一村ですが、文人画というジャンルを通してつながっていた面もあったのです。
また最近の研究によって、一村が1933(昭和8)年頃、西宮に一時逗留していたことがわかったのだそうです。
20点近い作品が逗留先の家に伝えられたとされています。
意外にも信濃大町の秘湯葛温泉や松本の浅間温泉にも一村は出かけていて、同地のスケッチ的な小品が展示されていました。
かつての文人たちがそうだったように「旅」もこの人にとっては重要な創画の源泉だったのでしょう。
経済的に余裕があれば、もっと全国あちらこちらに出かけていった画家なのかもしれません。
南国のイメージが強い画家ですが、これらからさらに「奄美以前」の作品が発掘されてくると、田中一村の新しい顔がみえてくるような気もします。
今回の展覧会は「アダンの人」だけではなかったこの画家の多彩な仕事がたっぷりと開陳されたという意味で画期的だったと思います。
会場内の写真撮影は全面的に禁止されています。
というかこの混雑では部分的に一部だけカメラOKとしてもスペース上、収拾がつかなくなってしまうでしょう。
非常にたくさんの作品が展示されています。
人混みに沿って全部律儀に鑑賞していたら大変なことになります。
残念ながら幼少期に描かれたごく初期の小品などは遠目に眺めるだけとしました。
なおこの特別展は都美の単館企画です。
他地域への巡回はありません。