伊東忠太 本願寺伝道院

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日本建築史研究の泰斗、太田博太郎によれば、この分野を最初に開拓した人が伊東忠太ということになります(美術出版社『日本建築様式史』P.4)。
1898(明治31)年に発表された彼の『法隆寺建築論』が日本初の本格的な日本建築史研究の書といわれています。

 

伊東忠太設計による本願寺伝道院の竣工は1912(明治45)年。
法隆寺建築論』の14年後。
施工は竹中組(現竹中工務店)です。

もともとは1895(明治25)年に設立された「真宗門徒生命保険株式会社」の本社社屋。
つまり当初の使用目的からみれば、この建物はオフィスビルだったことになります。
ちなみにこの保険会社は後に野村財閥に組み込まれ、戦後、東京生命保険となりますが、2001年に破綻。
現在はT&Dフィナンシャル生命にその業務が引き継がれています。

 

独特の存在感を放つ建築。
堀川通を挟んで聳え立つ西本願寺の建築様式とまったく異なるのは当然としても、伝道院が建つ6年前、1906年に建てられた辰野金吾による旧日本銀行京都支店(現京都文化博物館別館)の西洋古典様式とも全く趣が違う。
赤レンガを主体にしているところは伝道院と日銀京都支店に共通しますが、意匠の様式が根本的に異なっています。

煉瓦造り2階建。イスラム風ともインド風ともとれるドームが載せられ異様なムードが漂います。
さらにドームの下には様式的にまったくちぐはぐな花頭窓のようなデザイン。
壁面の表情もとにかく豊か。
和様の斗栱を模したようでいて古典様式をも意識した窓枠がみられ、単純に和洋折衷様式と断ずることができません。

 

法隆寺建築論』発表から4年後、明治35(1902)年から3年間、伊東忠太は中国、インド、トルコに留学しています。
雲斗・雲肘木などの特徴から法隆寺を日本最古の寺院建築と論証した伊東は、大陸各地の様式を誠実に吸収する独特の眼を持っていたのでしょう。
伝道院のディテールに横溢する異文化混交様式が単なるゲテモノ趣味に陥っていないのは、建築史家として意匠を見切る確かな思想が根底にあったからではないかと思ったりもします。
一方で、辰野金吾のように建築全体としての様式美を追求するよりも、細部の意匠に極端に拘っている点で、「品格」より「異形」さが際立つ結果にもなっているわけですが。

 

伝道院は、周りを囲む幻獣たちを含め、近くで観ても圧倒されます。
しかし、別の意味でもっと驚くのは西本願寺境内からの遠景。
あのドームがしっかり視野に入りこんできます。見たくなくても見えてしまうくらい。その高さが際立っているからです。
いくら当時のオフィスビルとはいえ、西本願寺御影堂門のすぐ延長線上にこんな異形の塔が建つことへの反対がまったくなかったとは信じがたいこと。
そもそもこの建物にはイスラム風ともみえるデザインまでとりこまれています。
インドまでは理解できても、イスラムと仏教は宗教として見た場合、混淆しようがありません。

この思い切ったデザインを許したというか、おそらく喜んで受け入れたのが、当時の真宗本願寺派法主大谷光瑞ということになります。
大谷探検隊を率いたこの人は伊東忠太と隊員を介して遭遇。
すぐ意気投合したといわれています。

もともと西本願寺には多様な様式の建物がその境内に包含されています。
重厚な御影堂と阿弥陀堂のすぐ近くに数寄屋造りの国宝飛雲閣
同じく国宝の唐門は桃山様式。
西本願寺には統一された様式の遵守よりも多彩なデザインを飲み込んでしまう懐の深さがあります。
大谷光瑞個人の趣味もあるでしょうけれど、西本願寺自体のこうした姿勢が、伝道院のキッチュな異国趣味を許容した、といえるかもしれません。

築地になぜあんなとてつもないインド風の寺院建築、築地本願寺があるのか。
伝道院を見ればその答えがわかると思います。
ただ、東京の大寺院では流石に全てを法主と建築家の思うがままにはできず、内部の空間造形には和様が採用されています。

重要文化財指定は意外に最近。2014年です(内部は通常非公開)。

 

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